高賀山(6) -稚児宮(中)-

前回、『傳記』の「兒宮」を峯稚児神社とは同一視できないと解した。とすれば、「兒宮」の読み方すら自信がなくなる。「兒宮」を「このみや」と読むか、それとも「ちごのみや」と読むか。ご一緒に楽しんでいただきたい。
1 「このみや」の場合
①「次高賀山本宮寺 兒宮飛瀧大權現本地阿弥陀如來」とし、「本宮寺」と「兒宮」を切って読む。前段に「高賀山粥川寺」のみで権現が記されていない例があることから十分可能な読み方だろう。
これが伝統化した解釈と言えそうだ。『星宮大權現之記』でもこの読み方であるし、『八幡町史』下もこれを追認しているように見える。また『濃北一覽』も、稚児山に関して、「兒宮秘瀧大權現」としている。
私は本宮及び新宮に加え、「飛瀧大權現」を那智とみなして熊野三社になぞらえたと解しており、この読み方なら那智社に関連する「兒宮」とみることもできる。那智社第八殿の「兒宮」は地神の一で、「このみや」と呼ばれることが多い。ただ同宮は近世史料に載るのみで、現状では、南北朝まで遡ることが難しい。
②「次高賀山本宮寺兒宮 飛瀧大權現本地阿弥陀如來」と読む。このように読んだ例は他に見当たらないが、対句とすれば魅力がある。
「二閒手大日堂-宇婆御前宮」、「次高賀山本宮寺-兒宮」とみれば、前半が堂名と寺名、後半が「宇婆」と「兒」がそれぞれ対応しており、本地と垂迹が読み取れる。この場合は、熊野本宮中四社の第七殿にある「兒宮」に対応するかもしれない。
①②共に「ちごのみや」と読まれることもあるようだが、伝承を優先して「このみや」と読んでおく。
2 「ちごのみや」の場合
私は郡上にまた稚児山をご神体とする信仰があり、その拠点の一つが田尻の白山社にあったと推察している。『一覽』には「田尻に兒權現」、注に「粥川虚空藏地方妖鬼守護神なり」とある。
同社伝によると、東南にあたる高岳に霊験があるというので越前の白山神を祭り、社殿を建てて稚児権現とした。近在の守護神として毎年二月二十五日を祭日にしていた。承平八年(938年)四月の地震で社殿が倒壊し、旭村神道の中ほどに移して白山大権現と改め、普光院を別当とした。その後、延久二年(1070年)に今の地へ遷座したことになっている。
これだけでは白山神と稚児権現の関係がよく分からないが、「兒權現」を「ちご権現」と読む点は間違いあるまい。また「峯兒神社」(『高賀宮記録』)を「峯-ちご」と伝承する点からも、「ちごのみや」とも読めそうだ。
私は『傳記』の「兒宮」を「このみや」、『高賀宮記録』の「峯兒神社」を「みねちご神社」と読みたいような気がしている。この場合、田尻の稚児権現が白山神に関連しそうな点を重視すれば、「峯兒神社」のほうが熊野信仰以前の姿を残していることになる。

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