肉体と精神

古今東西、人は肉体と精神とのバランスに悩んできた。ソクラテスは理性と法を優先し、自ら毒杯を仰いで肉体を滅ぼした。仏教でも、激しく身を痛める修行によって正しい行いをしようとする。本邦の修験道もまたしかり。
人は人の子として生まれ、成長し、やがて大人となる。たとえこれが順調にいくとしても、老いは避けられない。途中、事故や病気で苦を背負うこともある。いずれにしても行き着くところは死で、誰であれ他に選択肢はない。人は生き物として肉体から離れられない。生き物である以上、肉体を対象化することすら難しく、抽象するなどはとてもできないのだ。
頭のてっぺんから足の先まで肉体である。毎日腹が減るし、まあ排泄を忘れるということもない。少しは我慢できても、生きていく以上、これらを止めてしまうわけにはいかない。如何に知性を積もうが、如何に着飾ろうが、この運命は変えられない。
この辺りまでは肉体のカテゴリーに入りそうだが、もう一歩踏み込んで、どんな食材をどのように調理するか、どのような様式で排泄するかとなると、少しは精神の分野へ入り込んでくる。
身の衛生を保つこともまた、生命の維持に必要である。その方法についてはそれぞれ個性や固有の文化によって異なる。私は風呂ではなく、シャワーで長期間すごしたことがある。例え身ぎれいにしても、歳のせいで皮膚に油気がなくなってきたのか、冬場は乾燥して肌がかゆくなる。
この辺りの厳寒期は、暖房がしっかりしていないと長生きできない。寒い日が続くと、やはり熱い風呂が恋しく、友人などとゆったり温泉につかりたくなる。
人は髪を整えたり化粧を施したり、気に入った衣服や靴で身をつつむ。これらは、不可欠と言うよりは飾りの要素が多く、文化の原形となる。
かようにして生き物である人間は、如何に制御しようとも、欲求そのものを消すことはできない。いわば、「まず不合理ありき」なのだ。
これに対し言語を基にした合理性や論理などは、誰でも少しばかり訓練すれば、相当な整合性を持つことができる。いわゆる言霊に関連して、誰でも肉体に基づかない形而上の概念をつくれると錯覚する。
私もまた宗教、哲学や科学などの方法で、肉体から精神を分離できると錯覚し、精神に崇高な価値を与えようとしてきた。人並みに自由や平等を希求してきたのである。しかしこれらの野心は、生き物としての日常がなければ、少しばかり心の平安をもたらすことがあってもいずれは空しくなる。
近ごろ私は、話し言葉のみならず書き言葉や手話もまた肉体の営為として考え始めている。直立二足歩行によって手が自在になったように、生物としての単なる音声が歴史を積み重ねることによって言語へ複雑化したに過ぎないのではないか。