生涯現役

友人と話す中で、ふと出てきたテーマである。現役の定義は難しいとしても、一般には家計を支えるために働き続けるあたりか。
現役というのは、受験では浪人と対になっていたり、公職の退役と比べられたりする。会社員なら組織内で十分機能している状態だろう。この場合、定年退職を区切りにすることが多い。
生き物である以上、老いは避けられない。多くの人にとって、体力のみならず、思考の速さや確かさ、決断力などはどうしても陰りが出てくる。ただ、老いてなお性欲があり、生殖機能を持ち続ける人もいる。私は結構これを評価している。これこそ生き物として現役の名にふさわしいかも知れない。
遊牧民は老弱な者を貴ぶことはなかった。厳しい環境で暮らすからだ。スポーツの分野などでは、長短あっても、生涯現役ということはまずない。
農耕社会は割合老人を大切にしてきたが、これが過ぎると、若者の負担が大きくなりすっかり停滞してしまう。
近代社会でも話は変わらない。さほど能力がないにもかかわらず、定年になっても引退しないで仕事を続けるとどうだろう。確かに組織の伝統を継承するとか、経験の裏付けから大まかな行く末を展望するなどというのは年寄りの得意分野かも知れない。
ただ後継者を育てるという観点からすれば、頑張りすぎという意味もある。生存競争の厳しい現代では、若い世代の力で成否を決する場合が多かろう。老害をさらす前に、或いは潔く現場を去る勇気が必要かもしれない。
人の老いに至るプロセスは全て異なる。継続してきた趣味の奥行を深めたり、幅を加えたりすることもまた、人を現役にさせておく印象がある。過激な運動は無理としても、百姓などは歳をとってもできる。瞬発力はなかろうが、持続力はさほど衰えていまい。
死ぬまで勉強だと言うような芸術家や職人は、生涯現役という言葉にふさわしいかもしれない。こういった職にある人なら、年齢を重ねても、長く現役を続けられそうだ。
人は平等に老いるわけではない。経済力や時間の余裕など、すべて条件が異なる。ただ、それぞれの境遇で第二の人生を始めることもできる。老いてなお現役の人生があるのだ。伊能忠敬は早々に家督を譲り、余生を自らの夢を実現するために邁進した。
個としてじっくり取り組めるという意味では、若い時とは異質の実感が持てるのではあるまいか。これなら、りっぱに人生の現役と言えるだろう。
だがこれらとは別に、生涯現役でなければならない人もいる。世にはどんな人も生きているのだ。私は、自ら望んだとはいえ、地を這うように細々と現役を続けるほかない人生である。

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