人一倍

ある子が「人一倍」という用語がおかしいと言う。よく考えてみると、一理ありそうだ。「人一倍頑張る」とか「人一倍寒さに強い」などでは、人は他者を指すだろうから、「人より頑張る」「人より寒さに強い」という意味で使われているだろう。
ところが「一倍」なら、自分であれ他人であれ、せいぜい頑張ってもその人の力以上にはならない。人と同じぐらい頑張るとか寒さに強いということになってしまい、腑に落ちないという。
そこで古語辞典にあたってみると、「一倍 いっそう、よけい」あたりで副詞になっている。ピンとこないのでウィキペディアを見ると、八世紀初めの養老令で「一倍」の用例があり、名詞で元返しの意味になるそうだ。
やや下って平安期の『今昔物語集』では、利息としての一倍であり、元本の一倍と合わせて二倍とする例が出てくるらしい。元本が当然のものとして隠れてしまい、利子の一倍だけが表れているわけだ。
鎌倉代になると、公文書では養老令と同じようだが、一般に利子についての用法が多くなっていく。江戸期になると、「一倍」は「二倍(元本+利子)」の意味で広く使われるようになった。単言で「倍」の意味になってきたことになる。なるほど、これなら辞典の意味も氷解する。
それでは、彼が解した「人一倍」の意味はかつてどう表したのだろう。確信は持てないけれども、私は「一分(いちぶん)」という言葉に注目している。
まさに自分一人ないし一身そのもの、或いは一身の面目を「一分(いちぶん)」とする用例がある。また自分の身の振り方を決めることを「一分(いちぶん)を捌く」、自分一人で自慢する事を「一分(いちぶ-ん)自慢」などという。
これらに対し江戸時代の硬貨である「一分(いちぶ)銀」は、「一両の四分の一」に相当する補助通貨だから、「分」は「両」を四つに分けた一つ分を表している。また「一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂」などからすると、いずれも「一部」につながりそうなので、「一分(いちぶん)」と「一分(いちぶ)」は成立の過程が異なるかもしれない。
漢語で「人」は象形字で全身を図解したものであり、「口」「首」で表すこともある。また英語の<person>はギリシャ語の「顔」を原義とするらしい。いずれもしっかり個人として図象化されている。個として考え、行動することを優先したのだろうか。
本邦の「一分」が族から分かれていくことを重視する用語だとすれば、逆に母集団との関係が断ちがたいことを示している。断腸の思いで家族と別れ、一族からはぐれた気分になることもあっただろう。
進学や就職で門出の時期だし、親元を離れ、一人暮らしを始める若者も多そうだ。幸運を願っている。