高賀山(8) -牛頭天王(上)-

なぜこうも次々と難問が出てくるのか。
高賀社へ至る道中に谷戸がある。途中高賀川に架かるのが谷戸橋で、また「牛戻し橋」と呼ばれる。これから山へ牛を入れてはいけないと伝えられている。粥川でも大正時代まで割り木を並べた「牛返し橋」があり、ここからは牛を入れることができなかった。片知にも谷戸橋があるし、那比の本宮と新宮でも地勢上やはり那比川を渡る橋がそれぞれ谷戸橋になっている可能性がある。
橋が俗界と聖域を区別したり、つないだりするのは自然であり、これを難問だと言っているわけでない。
それぞれの谷戸でなぜ牛を入れないのかについては幾つか説がある。高賀社では、高光が姿形のみならず啼く音も牛に似た妖魔を退治したことになっており、高賀の神々が牛を嫌ったためとすることが多い。今でも牛を入れないようにしているという。最近まで高賀地区では牛肉を食べることを憚っていたそうだ。粥川のウナギといい、「伝承」が今でも現実に生きている例である。
これもまた浮世の縛りが宗教の纏をかぶっているという点では、珍しいことではない。
現在、高賀社は主要な社として八幡神、虚空蔵菩薩、大行事神、日月神と共に牛頭天王を祀っている。いわば聖なるものとして牛を信仰しているわけだ。私はこの点が腑に落ちない。高賀社では雑多な神を祀っている印象があるにはあるが、この中に牛頭天王を入れるのは、「牛戻し橋」と矛盾するではないか。
このような込み入った話をたちどころに解く方法はない。サイエンスといえども俄かには歯が立たないのだ。気恥ずかしいが、こういった場合はまず観察から。
社殿の大きさからすれば、主として八幡神と虚空蔵菩薩を祀っているだろう。この両者と大行事、日月及び牛頭天王はほぼ一直線上に並んでいるものの、三社はやや規模が小さい。
既に大日如来について述べてきたように、ここは神仏分離令による廃仏毀釈の影響を強く受けてきた。牛頭信仰もまた、この時期、素戔嗚尊へ宗旨替えしたところが多い。私は美濃市の大矢田神社もその一つとみている。
ところが、江戸中期に筆写されたとされる『高賀權現諸社繪圖』を見ても社殿の構成は変わらない。また元禄九年(1696年)三月に村役人が尾張藩へ届け出た『洞戸村之内高加佛數書上ヶ帳』(洞戸村高賀武藤文書)でも五社の構成は同じである。
つまり明治の嵐を受けても牛頭信仰が変質しなかったことになる。この点から、私は、高賀社における同信仰の根強さを感じ取っている。
以上、牛頭天王が少なくとも江戸期には主祭神と同列に祀られており、単なる合祀でない点が確認できるだろう。

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