私の読書

今どきの読書事情はよく知らない。私は田舎に住んでいることもあり、新刊古本を問わず、ぶらぶら本を買いに出るということはない。少ないながら、蔵書を読み切るだけでも荷が重い。
ちょっとした情報ならネットで充分だし、エンターテイメント性の高いものが読まれているのだろうか。子供たちの話からすれば、恋愛ものやホラー、今風の推理小説などを好むらしい。周りの大人に関していうと、私の印象では、娯楽小説や専門分野に特化したものが多い。
振り返ってみるに、もともと、私はさほど読書してきたわけではない。人より作家名や著作名を知らないことが多く、茶飲み話の腰が折れて、申し訳ないことになる。それでもまあ、本とは長年の付き合いだ。少しばかり振り返ってみよう。
若い時には若い時なりの読み方がある。私にしても今より速く読めたはずなのに、さほど数はこなせなかった。すでにこの辺りで、スパッと切れる明晰さや柔軟さに欠けることに気づいていた。
それならそれで対処の仕方はある。読みが遅いのなら、系統立ててしっかり読めばよい。しかし、私はこの点でも中途半端であった。
ちゃんとした勉強をしないくせに、片っ端から手ごたえのある古典をあさる。気負いが先走っていたのだろう。何度読み返しても理解できない處がかなりあった。それでも負けん気を出して懸命に読んできたが、基礎知識が足りず、どうにもならなかった。
というようなわけで焦りを感じながらも、消化できないうちに、別の分野へ焦点が移ってしまう。荷が重すぎたのだろう。乱読なのにそれほど読めなかったのは、経済状態もさりながら、ひとえに能力がなかったことにつきる。これでは乱読とさえ言えないかもしれない。もう少し身の丈に合った読み方があっただろうに。
これらには難解な図書をできるだけ読破したかったという言い訳ができないこともない。だが、殆ど身についていないことからすれば、ただ読んだという勲章が欲しかっただけかもしれない。
今なら、戦略に誤りがあったことが分かる。その時々に自分に合ったものを選んでいれば、もっと楽しく読めていたと思う。
それでも、この歳になって読み返してみると、棚上げしていたものを少しずつ整理できる気がする。はっきりしないけれども、何となく頭に浮かぶ理由は三つ。
1 少しずつは勉強を続けているので、やっとベースが出来てきたか。
2 長くは生きられない覚悟ができ、すんなり背水の陣を敷いて読める。
3 馬鹿さ加減を弁え、落ち着いて、自分の面倒をみるようになってきた。
私の事であるから、いずれにしても、大したことはない。