高賀山(9) -牛頭天王(中)-

どうやら私は牛頭天王と因縁があるらしい。『群書類從』神祇部の「二十二社註式」に京都八坂神社の縁起がある。その中で、
「牛頭天皇 初垂迹於播磨明石浦 移廣嶺 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院」とする記事がある。
牛頭天王が本邦へは播磨の明石浦へ初めて垂迹し、姫路市北方の広峰へ移動したことになっている。感神院は八坂神社。私は本貫地が明石であり、広峰は身近にあった。京都にも結構長く住んでいた。
前回は、「牛戻し橋」など牛をタブーとする伝承にもかかわらず、牛頭天王が高賀社で祭神として生き延びてきたことを示してきた。また神仏分離令による廃仏毀釈にも耐えており、同社の牛頭信仰が根強いと解した。
ところが、管見では、残念ながら江戸期より更に遡れる史料が残っていない。そこで天王のもうけたとされる八王子の信仰を傍証としたい。
重要文化財として追加指定された新宮懸仏の墨書銘文に、「奉鑄顯 八王子御正躰一面 正嘉元年(1257年)丁巳十二月十四日 勸進聖人慶西」とするものがある。
表面は薬師如来である。勧進した「聖人慶西」は新宮中興の祖と考えられている。
今、新宮から星宮へ通じる八王子峠に祠がある。ここにはかつて八王子神社があって、新宮の奥殿だったと推察されている。本懸仏はそこで祀られていたものではあるまいか。
八王子信仰の故郷は近江の牛尾山で、また八王子山と呼ばれる。この山岳信仰と天台宗山王神道と結びついたものが日吉山王権現で、比叡山の地主神である。日吉大社では上七社の一つに牛尾神社があり、祭神は大山咋神荒魂だが、かつては八王子とされていた。八王子山頂にあり、本地は千手観音である。
また同社拝殿内に中七社の一つとして「牛御子社」という末社があり、大威徳明王が本地とされている。
やはり中七社の一つで東本宮参道に「八柱社」という社があり、かつて下八王子と呼ばれていた。こちらは虚空蔵菩薩が本地で、以前触れたことがある。
私は高賀山信仰に関し牛頭-天王、牛尾-八王子を対応させている。少なくとも高賀山から八王子峠までは修験の道だっただろう。両者は、地理上も、頭尾の関係になっていたのではないか。牛頭は牛首とも解されていただろう。
新宮には、同じく慶西聖人が勧進した懸仏に「十襌師御法躰」と墨書するものがある。やはり重要文化財である。十禅師はまた上七社で祀られており、本地は地蔵菩薩である。以上、懸仏二点から、慶西が山王権現を意識していたことは間違いあるまい。
次回は高賀社の大行事神がまた中七社の一つで祀られている点を取りあげよう。

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