刺激
周りから見れば、何も変わらない平凡な生活に見えるだろう。確かにその通りだが、ここのところどういうわけか頭の中はいろいろ刺激を受けて充実している。こう見えて、結構日々新たなのである。
だが何もないのに、私がこの精神状態になることはまずありえない。これには根本の原因がある。なりわいとして、このままやっていくことが難しいと思い知ったからだ。これをピンチとみるか、チャンスとするか。
若い時なら、余程のことがない限り、後者だろう。だが、私は歳をとってしまった。自分をみても、周りを見ても、すっかり様子が変わっている。
とは言え、生きている以上は、身をごそごそさせるよりない。愚かにも当たり前だと考えていたことをやっと見直す機会が得られたことになる。ところが、これが新しい地平を見るようで結構楽しい。
私ができることはさほど多くない。時間や能力など条件が限られている。これもまた私を楽にさせている。周りにそれほど期待されることがなくなってきたからか。
私は、自分がやっていることに対しても、私自身に対しても高い完成度を求めてきたわけではない。自分が自分を見るだけなら、さほどのことは要求してこなかった。だからだろう、どう見ても、生き方が中途半端だった。
それでもまあ、自分の出来る範囲で、どうにか日常の営為をこなしてきた。これで楽しんで生きてきたのだから、奇跡に近いかも知れない。この状態が続くとすれば、今までの生活を見直すことはなかっただろう。
しかし仕事や小学にしても、このコラムにしても、一から考え直さなければならなくなっている。これがなかなか得られない機会なのである。
というようなわけで、細々とやってきたライフワークを他者の目にさらしてみる気になった。人の目を気にすれば、起承転結をつけなければならないし、行き過ぎを抑え、足りないところを補うようになる。まして実績のある人が見るとなれば、自分の足りないところが一目瞭然だ。残された時間で何とかしようとすれば、大きな刺激を受けたことになる。
同年代がぼつぼつ退職し、年金暮らしを始める人が多くなってきた。額に違いがあっても、それぞれ自分のできる範囲でのびのび生きている人が目につく。慌てず騒がず、現在与えられている能力をうまく使って、やり残してきた夢を実現したり、難しい技を習得したりしている。
私は誰かを羨ましいと思うことは稀だが、これらを見るとどうしても自分を振り返ってしまう。生きている間にしかできないことはやるしかなかろう、というのが刺激を受けた後の心意気である。