実を言うと

前回の続きである。読んでいただいていない人のために復習しておくと、那比の阿瀬尾(あせび)から登って修験道の再現をねらった山行の途中に、「かいかけ」という地名がある。この語源について、次の三説を紹介した。
1 近くに「鬼が坂」や「天狗踊り」などと解せる地名があることに関連して、「かい」をほら貝とみて、「貝懸け」。
2 土砂崩れで抉れた地形が二枚貝の裏のような姿から、「貝欠け」。
3 峠越しに「粥川(かいがわ)」という地名があるので、「かゆ」から「かい」に変化した。これは、各地に伝わる「粥占い」神事を連想している。
これらに対して前回、「甲斐」などから、「峡-欠け」という第四の説を紹介したわけだ。実を言うと、私は尾根道で第三の説を考えていた。その時には、音韻もはっきりしないし、なぜわざわざ尾根まで上がって「粥占」の神事をやらねばならないのか見当がつかなかった。
言い訳じみているが、私には、これに加え字形に拘りがあった。フォントの関係で字そのものを見ていただけないが、食偏に「尾」でつくる字がある。これはまた米偏にやはり「尾」でつくる字と同字異体、つまり同じ文字と考えてよい。これらはいずれも「粥」の義をもっている。
私は、今のところ平安時代末期から那比は山田庄の一部だったと考えている。承久の乱で勝利した鎌倉方の任じたのが東氏であり飯尾氏だっただろう。つまり、那比を中心とする庄園の一部では飯尾氏が地頭として認められたのではあるまいか。
この「飯尾」氏の字形を食偏に「尾」でつくる字とみたて、所領の境界を「粥」とつけたのではないかと想像していたのである。
これには更に伏線がある。私は粥川と本宮の宮洞(みやがほら)谷がいずれもかつて「藤谷」と呼ばれていたという伝承が気になっている。峠を挟んだ二つの谷が同じ名で呼ばれていたわけだ。まだしっかりした裏付けできていないし、時期も特定できない状況で何かを主張できるはずもないが、何らかの境界を示していた可能性があるということぐらいなら言えそうだ。その一つの候補として、何となくではあるが、「粥」と関連付けていた。つまり「かいかけ」を「粥かけ」と解し、「藤谷」をなぞって、新たに飯尾氏が境界を示したのではないかと連想したのである。
まさに想像の上に想像を加えた小説のごときものであるが、試行錯誤の一つとしてならありえると考えていた。生まれたばかりの仮説を鍛えるのも一つのやり方である。
仮説の良し悪しは実証で裏付けられるかどうか、どれほど視野が広げられるかにかかっている。コーヒーでも飲みながらじっくり議論し、結論に近づいていければ、これに勝るものはない。

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