「保」について

郡上の人にとって、上之保の北に下之保があるのは奇妙に見える。長良川に関して言うと、上流が上(かみ)で下流が下(しも)だからである。
この辺りの大地名では、「口」「中」「奥」、「上」「中」「下」がしばしば使われる。前者については「口明方」「奥明方」、後者については「上呂」「中呂」「下呂」、「上之保」「中之保」「下之保」などである。
「口」「中」「奥」は南北に限らず、あらゆる方向で使われており、用例が多い。ただ、この場合はやはり川の出合いが口で、中から奥という順序になっている点は共通する。「口」については「谷戸」の「戸」の用例とかぶる点を考察したことがある。気になる方は「方言と歴史学」シリーズを検索してみて下さい。
これに対し「上呂」「中呂」「下呂」はどうだろう。「呂」は本来背骨の意味があり、方角が一定とは限らないとしても、上下に繋がっているのが自然な解釈だろう。確かに、この辺りでは上中下がほぼ北から南へ並んでいる。
これからすれば、「上之保」「中之保」「下之保」もまた南北方向に並びそうである。
まあ長良川や木曽川は分水嶺から太平洋へ流れる川であるから、北から上中下になるのが生活感にあっているかもしれない。
今は関市に編入されているが、かつて上之保村は武儀郡にあった。おおまかに言えば、郡上の和良ないし小那比の南にあたる。
ほぼこれの東北にあたる沓部や祖師野から乙原以北を含めて「下之保」、そして西北にあたる美並が「南之保」と呼ばれていた。「和良之保」は別に論じるとして、今の西和良あたりを「中之保」と呼んでいるから、これらが武儀を中心とする呼称でないことははっきりしている。
郡上における「上之保」は、今の大和町や白鳥町を含む長良川両岸地域を連想することが多い。この辺りの長良川を上之保川と呼ぶことに関連しそうだ。
これに対し和良川流域が中之保と和良之保、馬瀬川流域が下之保で、人文地理上は長良川左岸にあたるとも考えられる。
とすると、郡上郡内に「上之保」「中之保」「下之保」がそろっていたことになる。これに対し「南之保」「西之保」という呼称もあるが、これらは恐らく大地名であり、新たに他郷へ食い込んだ可能性がある。荘園時代の名残りではなかろうか。
「保」は、養老令によれば、50戸を1里、5戸を1保としたことになっている。これがそのまま九世紀中ごろまで行われたとは考えにくく、郡上郡が設置されたあたりでは、郷中にある集落を保と呼んでいたのではないか。「保」は本来「堡」の字形と解され、また塁(とりで)の意味がある。

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