具体的

抽象的、具体的、汎用性など「的」や「性」のつく言葉がよく使われている。だが私は、語尾にこれら「的」「性」のつく言葉をあまり使わない。若い時からなので、理由はよく覚えていない。
ただ「性」の場合はなんとか免疫ができて、いくらか違和感が残っているものの、おそるおそる使っている。老い先短いとはいえ、今後私がこの「的」のつく用語を使えるかどうかを「具体的」に検証してみたい。
『大辞林』によると「具体的」は、「はっきりとした実体を備えているさま」「個々の事物に即しているさま」と定義されている。
明治に西洋文化を取り入れる上で、哲学者や文学者が苦心惨憺してつくりだした用語が相当あり、これもその一つだろう。
「具体-的」として、「具」は「具える、備える」、「体」は「肉体」「肢体」を指している。
「具体」は古くから使われているようで、『孟子』公孫丑章句上に「顔淵 則具體而微」という用例がある。
趙岐の注は「體者四肢 股肱也 一體者 得一肢也 具體者 四肢皆具」である。「体は四肢で股肱、一体は一肢で得られ、具体は四肢が皆具わる」あたり。
この「四肢」ないし「股肱」は手足のことで、これに頭を加えて五体とする説がある。これから「具体」を今風に解せば、「五体が皆具わる」という意味になりそうだ。
「的」は、英語で言えば<-ic><-al>などの接尾辞にあたる用語で、「様子 さま」と解釈されることが多い。私は青年時代、これを多用して概念を曖昧にするのが嫌だった気がする。
確かに五体がそろっていれば、実際に行動しやすいわけだし、個々の事物に即しても取り組みやすかろう。
ただ、五体満足であっても精神が充分熟練していない人がいるし、五体が不満足であっても自ら楽しみ大いに社会へ貢献している人もいる。
これからすれば定義もまた進化する必要があるわけで、一応「行動や論理で、様々な視点から考えられて、欠けることがないさま」「特定の事物に視点を合わせ、これに即して行動したり考えていくさま」あたりでどうか。
とすれば闇雲に理屈をこねていた時代とは異なり、この基準で振り返ってみなければならないわけだ。
前者については「欠けるところのないさま」が私の力では及ばないし、後者なら特定の事物にとらわれてしまい、他が見えなくなりそうだ。となると、やはり今後も「具体的」などという言葉は縁が薄そうだが、若い時ほど潔癖ではないので、遠慮しながらでも前向きに使っていけそうな気がしている。

前の記事

嫁と姑

次の記事

秋盛り