方向感覚

私は播州平野の東端で育った。それでも山は遠くにあって、私の感覚では目線より下にあった。街の中にいれば見えないけれども、少し歩けば海に行ける。私にとって山が北、海が南というのがあたり前になっていた。
私鉄やJRは東西に走っており、幹線道路もまた同じである。東にあたる摂津の方へ行くと、山が迫って、息苦しい感じがしていた。従って神戸へ出るときには、山が左で海が右側となる。私は海が見える南側に席をとることが多かった。
青年時代は京都で過ごした。山陽本線から大阪を過ぎて京都へ行くときには、それほど山がなかったにもかかわらず、山の中へ入っていく印象だった。京都は盆地で、三方が山だから、全く別の土地勘が必要である。海が見えないので、方向に実感を伴わないことが多かった。
幸い京都は道路がほぼ東西南北に走っており、割りあい楽に新たな方向感覚を得られたように思う。頭の隅に東西の軸として、東の大文字山、西の嵐山が残っている。
私は少年期に右と左の区別が苦手だった。しっかり左右が実感できたのは中学校に入ってからかもしれない。何ともはや、ふわふわした人生だった。それでも、青年期ともなれば自信を持っていたと思う。
東西さえしっかりしていれば、南北は簡単だ。今出川や丸太町通りなどの大路や、一条から九条まで東西の道路で南北を区別していた。
しらふなら、これで間違うことはなかった。ところが夜中に酔っぱらっていると、感覚が狂ってくる。わけの分からない所で寝ていたこともあった。
そして郡上である。山また山の中だから、まったく方向に自信がない。散歩に磁石を持っていくことすらあった。
こちらでは、川の流れを中心に考えている人が多い。確かにこれは便利で、間違うことはまずない。吉田川について言えば、わが横丁は上(かみ)に三班、下(しも)に三班あるという具合だ。
八幡町を俯瞰してみると、吉田川は街中でほぼ東から西へ流れており、我が家から川向いの北に城がある。長良川はほぼ南北に流れている。
これから、ここら辺りで上之保の上に下之保があるというのは相当の理由がなければなるまい。これについて私は、上之保は武儀からみて上であり、郡上の下之保は郡衙からみて下であると解してきた。
長良川沿いの旧美並村に上田(かみた)という大字名がある。これがいつ頃から使われているのか分からないが、小地名の変遷に比べれば、息の長い地名だろう。その最北に下田及び下川(しもかわ)がある。これもまた、それぞれ中心の異なる地名だとすれば納得がいく。

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