無駄な人生
「無駄な人生」は、近頃よく話題になるフレーズである。老い先が短くなってきたからか、来た道を振り返ることが多い。若い時には、私もまたそれなりに有為な生き方を目指していた。
無駄と言っても多義にわたる。「役に立たない」「よくない」「浪費」あたり。この他、「駄」の使い方から、荷物も積まず空(から)で行く印象がある。
私について言えば、少しは人の役にたっただろうか、邪魔をしてきたのだろうか。落ち着いて考えてみると、後者の方が多そうだ。
長年、自分が楽しいことを優先してきた。他者からすれば、役に立たないし、よくないということになる。幸い、浪費に関してはクリアしているかな。
自ら楽しむためには、周りの理解が必要だという意味で、譲歩することはあった。が、常に人を意識して謙虚に生きてきたわけではない。この点について後悔することはない。
とは言え、自分を見失わないで、青年時代から思い描いた生き方を貫いてきたというわけでもない。あっちへ行ったりこっちへ来たり、道草ばかり。
幸い、私にも子供ができ、孫もできた。確かにこれには幾らか意味があるかもしれないが、単なる僥倖であって、私の手柄ではない。
親なら子供に、しっかり生きて、少しは人のためになるよう生きてほしいだろう。自分のことは棚に上げて、欲張るものだ。私は、自分と家族が生きるだけで汲々としてきた。これからすれば、子供たちに過大な期待をかけているかもしれない。
仕事についても、特に縁の下を支えることを自認したあたりから、目立った働きはできていない。方向は間違っていなかったにしても、さほど成果が上がらなかった。私のことだから、どうしても自分に甘かったのだろう。ただ、実績やら見栄えやらの基準が入れば誇れるようなものではないが、何とか生きてこられたところを見ると、そこそこやれてきたような気もする。
小学にしても、人の通った後をたどることが多く、オリジナルにはほど遠い。最前線にいるという感覚が湧いてこない。かつては量が増せばいずれ質は伴うと楽観していた。が、一向に中身が伴わない。これは、今なら、過信が原因だったと分かる。今も昔も冴えがなく、いつまでも迷っている。
この歳になると、これからもう一働きという頑張りも空回りすることが多いらしい。だからと言って、私がめげているわけではない。むしろ、無駄な人生だったという諦念が憑き物を落してくれる。結構これが気にいっている。やはり必要最小限の人生はつまらない。
すっからかんだとしても、愚かさを隠さずにいれば、心楽しく生きられる。