宗知洞の稚児権現(上)

テーマを決めて、コーヒーを入れた。ここのところ地味な話題が多いので、後ろ髪を引かれる思いはする。ただ吐き出してしまわないと次に進めない気がするので、おつき合い願うことにした。今回は、「宗知(むねち)」を「胸乳」と解した論拠を示したい。
宗知洞は小駄良にあって、大日堂のすぐ南へ流れ込む。大日堂の裏山はまさに「大日」と呼ばれ、宗知洞が流れる。後背地が険しいので相当な急流になっている。かつて小駄良筋に出る小さな扇状地を「宗知洞の森」と呼んだ。まだ確認していないけれども、この辺りで先史時代の石器が出土するらしい。
さて、ある時修験者が稚児権現のご神体を背負って中桐の地に現れ、これを宗知洞の森に祀ったという。ところが大水が出て、ご神体が流出し、行方不明になった。洞の下流に住んでいた宗広孫左衛門という人が、「私は馬が嫌いだ。馬の声が聞こえぬ七尾七サコの辻へ安置せよ」というお告げを聞いて、ご神体を見つけたと云う。そしてお告げ通り、宗知洞の山頂に安置し御堂を建てた。今でも毎年八月十五日に、中桐の住民が交代で供物をもって登拝し堂周辺の清掃を行っている。
就中、「馬」は不審。「七尾七サコの辻」は尾根道が何本も出ている処という意味で、上之保との境界になっていたと思われる。
小駄良の大日堂は長滝寺の系譜を引く。長滝は白山三馬場の一つである。地理条件からも大日堂が稚児権現に関連しそうだが、ミッシングリンクは「宇婆御前」である。
『古事記』の用例では、「宗方(むなかた)」が「胸(むね)と肩(かた)」に文身を入れていると読めるし、黛なら「目(ま)ゆ墨」という塩梅である。「乳(ち)」は「垂乳根(たらちね)」「乳飲み子」などの用例が考えられる。
「宗知」が「むねち」であって「むなち」でない点も、或いは原形を保とうとしているかもしれない。
「宗知」が「胸乳」なら、「宇婆」を連想できるので、大日如来がしっかり稚児権現につながる。この辺りで大日信仰は、女性との拘わりが深かったようだ。
那比と比べよう。新宮の『巖神宮大權現之傳記』によると、本宮には「兒宮(このみや)」があったと記されている。これと高賀山の峯稚児神社が関連するのかどうか。私は、高賀山シリーズ(5、6、7)では別ものと解し、それぞれ熊野と白山信仰を源流にすると考えてきた。
那比の大日堂は新宮へ分かれる二間手にあり、本宮の兒宮と繋がりにくく、峯稚児神社との関連が出てくる。小駄良の例からすれば、新宮の宗旨替えに伴って大日堂が別にされたと考えられないか。新宮が、本宮などと共に、薬師や大日如来から虚空蔵信仰を中心にするようになった時である。とすれば、追いやられた両者がともに平安後期まで遡れる可能性が出てくる。

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