大日のこと

ここのところ頭の中は、けっこう色々なことがかけ巡っている。この前触れた薬師と並んで大日信仰も気になるところ。高賀山シリーズ(2013年/12月から2014年/1月までの三編)で触れているので、興味のある方はバックナンバーを拾っていただけると続きが分かりよいかもしれない。
高賀六社いずれにも大日の影が残っており、時期ははっきりしないけれども、全山を覆うような勢いのあったことが想像できる。
高賀山の北側では新宮に入る二間手に大日堂があったらしい。今では小さな祠が道路わきに祀られているのみだが、越前から来た塩サバ売りの話からしても、相当な法力があったと思われる。
これまたシリーズで言及したが、商人の怒りをかい、那比川へ投げ捨てられた大日如来の後日譚に触れてみよう。
捨てられたところが「仏が淵」、流れついたのが寺本である。なんでも当時寺本で庄屋を拝命していた家が、若い衆何人かを使い、網にかかった大日如来を家まで持ち帰ったという。大事にお祀りし、それ以後、屋号を大日にした。
ところがある日、主の夢の中で如来が自分を小駄良で祀れと言ったそうな。この話は江戸時代前期とみてよさそうだ。これに感じて彼は、村の衆を使い、大日様を小駄良まで運んだ。それ以後、盆正月には欠かさずお参りし今日に至っているという。
これに対し、那比の方では大日様を返してもらったという伝承になっている。ただ、那比にしてもその実物が見られないのが残念である。
小駄良にある当の大日様は、もと安楽寺の本尊だったという記録がある。安楽寺に伝わる『法流山歴世録』に「夫レ當山ノ太古ハ天台宗長滝寺ノ門下ニシテ其ノ本尊佛ハ大日如来ナリ」とある。
同寺は「第七世道西が浄土真宗へ改宗し、以前の本尊は道場跡地と推定される大日堂に安置されている」と解している。
確かに、背後の山が「大日」だし、堂の前の田畑は「堂前」というので、大日堂のある地がかつて長滝寺門下の道場であった可能性が高い。もっと言えば、大日山の南に流れているのが「宗知(胸乳)洞」で、那比の大日堂が「宇婆御前宮」とする点と共通する気がしている。とすれば、大日如来は天台宗の寺では自然だし、安楽寺の本尊だったと考える方がよさそうだ。
とは言え、寺本の伝承を捨ててしまうわけにもいかない。大日如来に体内仏が見つかっており、円空仏と言われている。これまた不自然なことだから、話の出所を同時代とみれば、或いはこれと関連する可能性まで否定できまい。

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