宗知洞の稚児権現(下)

少しばかり間を置こうとしたが、已みがたい思いが涌いてくる。引き続きお付き合い願いたい。
前回、那比本宮の「兒宮」が熊野信仰に、峯稚児神社が白山信仰にそれぞれ関連するのではないかと推論した。これだけでは表記にヒントを得ただけの妄想に近いと思われそうだ。
稚児山の場合、鬼谷の熊野神社と田尻の白山神社がそれぞれ対応しそうである。これら二つの勢力が拮抗していた時期があったかもしれない。
鬼谷熊野社の淵源が不明なので現状推測に過ぎないが、田尻白山社に匹敵するのであれば、那比での解釈を傍証するかもしれない。
後者はかつて広大な敷地をもっていた神社で、天台宗の寺が別当をしていた。大日信仰と関連があっただろう。
ところが、宗知洞の稚児権現には熊野の影がない。上之保との結びつきが強いことを示している。
那比本宮と稚児山の場合は確かに熊野信仰と白山信仰が入り乱れているが、宗知洞の稚児権現から、後者が古層にあって前者がかぶさっていると解せないか。
これはやや時代が下って鎌倉期以後、高賀六社が虚空蔵信仰に覆われていくのを解くにも、やはり虚空蔵信仰の痕跡が小駄良筋にない事がヒントになる。
つまり長滝が中心になって虚空蔵信仰を広めたのではないと推定できるのだ。とは言え、石徹白の御師が広めたという説まで否定できまい。この場合、小駄良筋とはルートが違っているかもしれない。美濃馬場にしても一筋縄にはいかない。
修験道たる尾根道はまた境界でもあった。宗知洞の稚児権現が、郡上郷のおける西北の境界を示しているように見える。南は高賀山の峯稚児神社が武儀郡と、東は稚児山が安郡及び和良郷と、そして宗知洞の稚児権現が上之保とである。
小駄良筋には何本か修験の道があっただろう。修験者が稚児権現を背負ってきたという話ばかりでなく、中坪山の愛宕信仰にも修験の伝承があるし、是本薬師の向かいには比丘尼屋敷があった。
更に是本から大瀬子へ抜ける道、西洞から古道への道、坪谷から上之保や寒水へ抜ける道など、小駄良から重要な交通路が縦横に走っていた。
郡上郡衙が成立する頃には既に北から修験者たちが行き来し、それなりの勢力圏をつくっていたのではないか。これに対し郡衙が熊野信仰を擁護して対抗させたという構図を考えている。なぜ稚児権現が重要な境界になるのか分からないが、南北のせめぎ合う焦点だったのかもしれない。
最後にもう一つ。未確認ながら、戒仏からも稚児山が見えるらしい。

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