一本の電話

一週間ほど前だったか、旧友から電話があった。丁寧に書けば、このスペースに収まり切れないつき合いである。ただ近ごろは年賀状も途切れがちになっており、普通で言えば、懐かしい人から架かってきたことになる。
もごもご聞き取りにくい声で私のファーストネームを呼ぶので、一瞬にして誰だか判別できた。方言もそのまま、トーンもそのまま、朴訥な話しぶりもそのままだった。
本当のところなぜ彼のことをここで書く気になったのか分からないが、たまに阪神淡路大震災と彼を連想することがある。確か、彼の息子さんが震災の当日に誕生していたからである。
彼の声を聞いて、一瞬にして二十何年か前へ戻ってしまった。アメリカ映画のように、あの日に目出度いことも起こっていた。身近な事実なのだ。
当日はひどかった。これだけ年月がたっても全てが氷解したわけではない。薄れていく記憶と共に、きついところは癒えているようにも見える。それでもなお脳裏の一角に、まだ凍ったままのところがある。愚痴をこぼしたところで、どうにかなるわけでもないし、自分自身が嫌になるだけだ。
ふだん口数の少ない彼だが、なぜか順序良く、饒舌に話している。息子さんがストレートで大学を卒業して、めでたく就職が決まったそうだ。彼は親父が通った同じ大学へ入り、すんなり卒業できたという。家の経済状態を慮り、下宿もせず家から通ったそうである。彼の話からすると、孝行な子のようだ。こうなるとドラマに出てきそうな筋だが、本当の話らしい。
私は彼を赤ん坊の時に見たなりで、それっきりである。それすら不安になってきた。外から見ても人となりは分かるはずもないが、親父が出世や金に執着するわけでもないし、人を出し抜いて何かをするような人ではないので、おおらかに育っているだろうと想像はできても、実際のところはよく分からなかった。
彼にとって、目出度いことがまだある。既に定年になっていたが、その後五年ほど再雇用してもらっていた。息子さんの卒業、就職を機にすんなり退職を決めたそうである。まさに隠居ができるようになったわけだ。
長年の宮使いもこの三月で終わり、新たな人生へ船出となる。これといった趣味がないので、百姓をやってみたいという。
乗り越えたとまで言えないとしても、それなりにうまく震災と付き合ってきたのではあるまいか。毎日欠かさず晩酌する彼の人生なら、先に旅立った者たちへの手向けができそうだ。
近ごろは十年に一度も会えていない。いろいろ整理して、五月の連休に郡上へ来るという。それはそれで鬱陶しいが、まあ楽しみではある。

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