「保」のまとめ(下)

郡上の保をまとめれば、武儀に通じるかもしれない。ここまで気良庄の下保、中保が庄園時代を越えて郡上郡設置あたりまで遡れるとし、また山田庄の上保が生き残ったのはやはり庄園時代以前の姿を残していたからと解した。つまり三保(下保、中保、上保)が、平安中期まで遡れると考えたわけだ。
ここで吉田庄について触れるべきところだが、紙幅に限りがあり、簡単に振り返るのみとする。同庄はかつての郡上郷を中心に、もっとも北に位置した吉田郷が郡衙時代の安郡郷を一部襲い、これより更に北へ行くと一部気良庄とかぶさる地区がある。
ここで郡上郡設置まで遡って概観してみると、四郷のうち和良郷と安郡郷が気良庄へ、郡上郷と安郡郷の一部が吉田庄へ、栗原郷が山田庄へ移行したと考えられるのではないか。
保が庄園時代を更に遡れるとすれば、郡上四郷のうち残る三郷が保に割り当てられたと考えられよう。大まかに言えば、和良郷が下保、安郡郷が中保、栗原郷が上保と呼ばれるようになったと解するわけだ。とすれば和良郷は旧東村を含むことになり相当広い。
この場合気になるのは、郡上郷にあったと思われる気良庄南保は目新しい地名と考えられるので、郡上郷には本来「保」のつく大地名はなかったと解せることである。つまり郡上郷に保の制度が適用されていない点に注意したい。
郡上郷に郡上郡衙があって、それ以外の郷を保と呼ぶようになったわけだから、郡衙の制度に関連するだろう。
郡上郷に保がなく、その他の三郷が三保になったとすると、郡上郷は郡衙の直轄となり、三郷が郷長制度から保長を任命して管理する制度へ移行したと考えられないか。
郷の戸数が増加し、郷制度では広がった地縁を覆いきれなくなったので、新たに保の制で税を集め徭役を出させようとしたと想定している。
実質上、郡衙を担う郷長の力が及ばないようになってきたので、新たな枠組みとして保を採用し再編しようとしたのではないか。
地方における保の制度はまだしっかり定義がなされていないが、古代における五保の制が戸籍上の概念であるのに対し、平安中期においては地縁の枠組みという性格が強まり、後期には保で庄園の所領を区分するようになったと考えられる。
四郷が郡上郷と三保へ展開し、更に庄園時代に大よそ郡上郷が吉田庄へ、三保が気良庄、山田庄へ分割されたと解している。そして、残存地名として馬瀬から祖師野あたりを下保、西和良あたりを中保、五町から前谷辺りまでの長良川周辺を上保というようになった。史料状況とよく符合するだろう。

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