つらら

つららは「氷柱」と書くらしい。誰が考えたのか分からないが、今回の場合、意味が当てはまるのは半分ぐらい。
私の部屋は北向きで、かなり寒い。古い家なので隙間だらけである。幸いというか、山に囲まれているので、それほど強い風は吹かない。まあこれで幾分か救われている。
部屋に暖房器具はまったくない。夜中に湯たんぽを入れてもらうだけである。足を温めてからでないと寝付けない。
日当たりが悪い上に北側なので、なかなか雪が解けないし、今年もつららができた。
ふと気がつけば、起き抜けにどうやら前日と比べている。長くなるのを楽しみにしていたらしい。大抵の冬なら気にならないのに、なぜか毎朝一番に眺めている。いつもより長いだけでなく、形がよいからか。
つららが軒全体を覆っているなら、樋のことが気になるし、鬱陶しいので折ってしまうだろう。どういう具合か、目立っているのが数本だけなので放っておいた。
中でも一番長いのが60センチぐらいまで伸び、根元がかなり太くなっている。落としたい衝動に駆られるものの、ぎりぎり自分を抑えている。
また必ずつららの下にできている盛り上がった氷へも視線をやる。垂れ下がっているものと比べればそれほどでないけれども、7、8センチぐらいまで高くなっている。どちらと言うと、こちらが「氷柱」にぴったりだ。
上から下へつつらが、下から上へ氷柱が少しずつ伸びていくのを面白く感じていた。ここしばらく、それぞれ上下から伸びて繋がらないかと想像していた。鍾乳石が天井と床につながって柱になるあれである。鍾乳石がつつらとすれば、石筍が氷柱のようなことを連想したらしい。
ところが二三日前の朝のこと、つららは大きいものを含め殆ど落ちてしまっていた。暖かったからだろう。下の氷の柱は何とか持ちこたえている。
落ちて喜ばしいはずなのに、なぜかちょっとがっかりした。祭りのあとの寂しさに似ている。我が部屋の寒さが相当厳しくて、それでも私は音を上げずに耐えているというような高揚感があったのだろうか。暖房器具をそろえないのは、単に貧しさだけではなく、何らかの生きがいと関連しているかもしれない。
ただこの歳にもなれば、こんな頑張りは不要である。むしろ脳の血管が切れるのを恐れるべきだろう。部屋に暖房器具を入れて、暖かい状態で眠る方がよいに決まっている。
まあ、これもまた一種の生活習慣病みたいなもので、相変わらず凍った部屋で湯たんぽを頼りに生きている。

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