牛と馬(5)

今回は和良筋を確かめておく。これまで板取川から寒水まで牛と馬の飼育を遡って考えてきた。いずれ種明かしするとして、牛に親近感を持つ白山信仰とこれを嫌う高賀山信仰の境界を探るためである。これはまた郡上におけるこの二大信仰の盛衰をも示すことになる。
和良郷は郡上郡衙の設置された九世紀半ばに遡れる。祖師野八幡神社の史料から、旧東村にあたる地区もまた郡上郡に遡れるかもしれない。とすれば和良郷と一体だったことになる。
さて和良郷では殆どすべての村で馬を飼育しており、牛はない。ただ文化八年(1811年)の村明細によれば、土京村で馬14-牛7と記録され、旧東村でも相原村のみが馬10-牛3(明治元年 1868年)となっている。土京村及び相原村はほぼ下之保と考えてよく、郡衙からすれば東の端にあたる。
立派な白山神社がある宮代でも牛の飼育が全く見られないし、江戸時代には一部を除き和良郷全体で牛が飼われていなかったと解してよさそうだ。
近世以前では特に宗教上のタブーが相当きついので、村が何事もなく続いていれば、この慣習もまた中世まで遡れる可能性が高い。
これは郡上郷においても同様で、長良川筋では旧美並村から八幡町まで牛の飼育が全く記録されていないことに対応しているだろう。
ここで気になる点を二つ挟んでおく。歳を重ねるにつれて温めておくのが難しくなる。幾分か知見が増していくとしても、段々底が浅くなっていく。
旧和良村沢に念興寺というお寺がある。郡上に来たばかりのころ、天暦年中(947年-957年)に藤原高光が退治した瓢が岳の鬼の首と称するものが伝存しているというので見に行ったことがある。確か二本の角があった。粥川何がしという人が和良へ持ってきたそうな。
『那比之郷巌神宮大權現之傳記』によると、その鬼は「惡鬼」と呼ばれ、「其形似牛 啼聲亦如牛」とされている。牛の形に似て牛のように啼くのだから、まあ牛とみてよかろう。これからすると、鬼の首に角が二本あるので合点がいく。
もう一つは、九頭宮の祭りである。明治なって戸隠神社と呼ばれるようになったらしい。これ又ずいぶん前のことだったが、祭りを拝見する機会があった。その時に腑に落ちなかったのは、奉納舞の最初あたりで「馬」に扮した若者が勢いよく境内を回る点だった。ずっと潜在化していたが、寒水のかけ踊りの前段でやはり「馬」が荒々しく回るのを見て、なぜか腑に落ちたように感じた。
これは馬文化を有する者が牛文化を蹂躙している姿ではないか。武士が百姓を抑えているというよりは、むしろ中世以前を映している気がする。

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