ガラクタとゴミ

近頃ガラクタとゴミは違っているように思えてきた。言葉というのは音の響きはもちろん、その文字をどう書くかで表情が異なる。ガラクタは無表情な感じがするのに対し、「我楽多」「瓦落多」「瓦落苦多」などの当て字を使うだけで、その人がどう感じているのか読み取れるような気がする。
「ガラクタ」の語源は知らない。一説に「ガラ」は「ガラガラ」と物が触れ合う音、「クタ」は「芥(あくた)」の一部を借りたという。江戸時代からあるそうで、役に立たない雑多な物を指すようだ。
「瓦落多」であれば瓦が落ちて役に立たないことを連想するし、「瓦落苦多」なら葺き直すなどして瓦が苦になる程多い印象だ。これらでは何ら感慨が起こらない。
私の心象では、広く使われている「我楽多」がぴったりくる。かつて自分が楽しんだものを大事にとって置いたが、まったく使われることなく、周りにゴタゴタたまっている様子が浮かんでくる。
子供時代に遊んだベーゴマやビー玉などは当時の私にとってかけがえのないものだった。私はどういう訳か勝負事がけっこう強く、相当な数を集めていた。
ところが母親がこれを嫌い、どこかに隠してしまった。縁の下にあることに気づいても、触れようとしなかった。成人してからでも帰郷した折に探すこともできただろうに、そうはしなかった。今でも探す気にならない。これを表すとすれば「我楽苦多」あたりか。
それ自身に何の価値もないが、見れば確かに当時のことを鮮明に思い出しそうである。
今まで私が自作したものは絵や様々なノートを含めれば、けっこうある。ただし私が作ったものであり、とるに足らないものである。これらは汗みたいなもので、私の場合はしばらく取って置いても、そのうち大抵ゴミとして捨ててしまう。
あちこちから一人暮らしをするとゴミ屋敷になる話が聞こえてくる。この歳になると、周りをきれいにして、いつでも旅立てるようにしておきたくなる。
私はあまり物に執着しない質らしく、目に入るものでいえば、本を除くとパソコンぐらい。本も使い古したものが多いので、大切なものは友人に返して、その他は少しずつ燃えるゴミとして出せばよい。
出来の良いものを自作する人なら、別の感性を持っているかもしれない。手間を惜しまず作ったものなら宝物として愛着が湧いていそうだ。多くの人が認めれば、骨とう品として生き残れる可能性もある。それ程でもなければ、ガラクタという評価になってしまう。
まあ私の手掛けているものなら、自信をもってゴミと言える。結構バックアップするようになったが、作業をやり易くするためであって、それほど愛着があるからではない。

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