金は幾らあっても困らない

これまで幾度となく聞いてきた文である。なるほどそうだと感じる時もあるし、少しでも持ちすぎると苦になる時もある。いずれにしても、私には困るほど金を持ったことがないので架空の話だ。
当たり前の生活と言っても人によって随分と差があるだろうし、例え同じような境遇で暮らしていても金の使い方はいろいろだろう。
まずは貧乏人の話から。子供の給食費すらままならない人なら、まっとうな金であれば、幾らでも欲しい気分になるだろう。これほどではないとしても、底辺に生きる者には衣食住いずれにも何かしら渇望しており、やはり金は欲しかろう。
必要最小限の額は、それぞれ生き方によって変わるので一般化するのは難しい。
我ら小市民にしても、経済状態が幾らかでも改善し始めると、心を養うことに気が向くのではないか。
どうぞこぞ生きていられる人は、強烈な上昇志向を持たない限り、それほど金銭欲が強いという印象はない。たまたま多額の金銭が手に入ると、落ち着いていられない人が多いのではなかろうか。
少しばかり生活が派手になるだけで、それが当たり前になると、元には戻れない。なんだかひもじく、寂しくなったりする。
次は成り上がり者について。私は彼らが社会を変える主力だと考えており、評価が高い。成り上がると日常生活も派手になりがちで、買い物など豪快なことも多いだろう。ここで二代目、三代目がしっかりすれば老舗になり、生まれながらにして金に苦労をしなくてもよい世代が生まれる。
最後は何代にもわたって旦那衆の家に生まれた人はどうか。彼らはそれほど金を稼ぐ苦労をせずとも、おとなしくしていれば豊かな暮らしができる。これに満足していられる人なら、もう何世代か生き延びそうである。
この辺りの昔話にはあちこちに凄まじい長者がいた。川佐長者はよく知られているし、朝日長者や母袋よそざが浮かぶ。ただ彼らの絶頂期は短く儚い。
近世における郡上の大金持ちと言えば、杉下五平衛氏だろう。大阪の鴻池家と付き合いがあり、参勤交代する藩主に金を貸すほどであった。ただ彼らの子孫にしても、近頃郡上での存在感はさほどでない。
私はどうかと言うと、もう少し金があればできることもあるので、欲しいと言えば欲しい。だが幾らあっても困らないかと言うと否である。金を持ちなれていないので、ひどいことになりそうだ。
金は幾らあっても困らいないのは金を幾ら持っていても困らない人だけで、そのような人はあまりいないような気がする。

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