生老病死

「せいろうびょうし」と思い込んでいた。調べてみると、「しょうろうびょうし」と読むらしい。「生老病死」は仏教で使われる用語なので、なるほど呉音の「しょうろうびょうし」が適切かもしれない。
生老病死は、「生きること」「老いること」「病むこと」そして「死ぬこと」である。人が生を受けて死ぬまで苦しいことの連続というわけで「四苦」と呼ばれている。
人生をエンジョイすることが善とされる現代では、ちょっとブルーな発想と言ってよかろう。特に若い世代に、このような考えをうまく伝えるのは難しい。
病気になるのは何も年寄りに限っていない。自分や周りの人が重い病気に罹ったりすると、何となく事情がつかめたりする。また精神が病み、これから抜け出せないと錯覚している場合なども本人は誠に苦しんでいる。
浮世はアンチエイジングが大流行。いつまでも健康で、若く見られたいというあたりか。これには反論する気にならないが、「老いること」は健全だと思う。老年に至るまで、ピンチがあった人もなかった人も、何とか生き抜いてこれたからだ。
私の周りでも夭折し生を全うできなかった人もいるし、青年時代に事故で亡くなった人もいる。いろいろあって老いることがいつも目出度いとは言えないとしても、生きているのが奇跡みたいな気分になることがある。
老いて生活習慣病などで病むことは避けがたい。金属疲労みたいな印象である。何かの会に出かけると、脳の血管が詰まり半身不随なっている人がけっこう多い、透析や糖尿で医者通いが欠かせない人もいる。
内臓ガンの進行が早く、老いるまでに亡くなる例も一つや二つではない。生き物としてこういう事情が避けがたいとすれば、何らかの形で病気を受け入れざるを得まい。
近頃、私はこの生老病死の順序がすんなり受け入れられるように感じている。決して道学者のごとき哲学を解くつもりはない。ただこの順序がとても分かりやすく、口を挟むことができないほど人生を全うできていると思えるのだ。
若くして亡くなってしまうのは「生病死」あたりだし、青壮年代から長い病歴のある人なら「生病老死」となって誠に苦しそうだ。
信じがたいが、病気一つせず、朝起こしにいくと穏やかな表情で亡くなっていたという話がある。老衰だったらしい。これなら「生老死」と言えるかもしれない。
これらと比べてみれば、生老病死はそれなりに老いてから病気になり、死亡するという段取りなので、生き物らしいのではなかろうか。私は結構本気である。
病気になってもリハビリに励み、死ぬぎりぎりまで人生を楽しもうという人が傍にいるだけで、私もハッピーになる。

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