こころざし

ちょっと青くさいかもしれない。この歳になれば、もはや人生の収穫期と言ってよい。今に至るまでどのような過程で生きてきたかは問われても、今さら志が高いだの低いだのをテーマにするのは気恥ずかしい。
ただ若い時なら志を高く持ってほしいし、少しずつでも夢を育んでほしい。その方がきっと勉強にも勢いがつくし、人生を楽しめるだろう。
とは言え、余計なお世話かもしれない。時代相がすっかり変わってしまった。我々の世代なら、衣食住すべて満ち足りていた子供は稀だった。欠けたもの補うためのバイタリティーなり夢だったかもしれない。
近頃聞いた話では、壊れるのが怖いから、夢を持ってもしょうがないという子がいる。それなりに満ち足りた世代なら、そういうことがあるかもしれない。
今や各分野とも、一線でやるには小さいころからのエリート教育でないと間に合わないとされる。こういう路線から外れた子は悔しいだろうに、手探りで覚ましい道を目指すよりは、「平凡」な生活をイメージするらしい。更なる精神のダメージを恐れているのだろうか。私はゆっくり育ってほしいので、ことさら何もせず、遊ぶことを優先させたいと思ってきた。今や時代の潮流から外れているかもしれない。
私のように長期間貧乏な生活を送ってくると、残念ながら初心をどこかに置き忘れてしまい、かつて思い描いた道程も消え果て、目先を生きることに腐心するようになる。先のことに不安があると、なかなか今を楽しむ気持ちになれない。
それでは金や時間に余裕ができればかつての志を回復できるかと言うと、恐らく否である。途中の空白が大きすぎて、すっかり様変わりしている。夢にしても、中身を思い出すことすら骨である。
晩年に何を収穫するのかはそれぞれ異なる。金や社会での地位、それぞれの分野における実績などが思い浮かぶ。これらの他、清廉な精神や知恵なども対象になりそうだ。曲がりくねっていても、青雲の志を持ち続けることができた人にのみ因果がついてくる。ところが、私には手にしたものが思い浮かばない。進行中の作業が順調かどうか、型にはまって楽になっているかどうかに焦点を当ててしまい、自らに与えた課題がどんどん棚上げになっていく。
『論語』に「六十而耳順 七十而從心所欲不踰矩」(爲政第二)という文章がある。いろいろ解釈があって迷うが、何晏は前者について鄭玄を引き「耳 聞其言而知其微旨」、後者について馬融を引き「矩 法也 從心所欲 無非法」とする。
六十代なら「人の言うことを聞けば、その要旨を細部まで知り」、七十代なら「自分の欲に従っても、道理に叶わないことがない」あたり。誠に高潔な志は「士」の「心」である。このような「士」たる「人」なら仕事もできただろう。

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