友人の海外旅行

羨ましいから書くのではないことをまず断っておきたい。いつの頃からか海外旅行はおろか国内の遠出すら億劫になり、近頃では郡上市を出ることも稀である。
田舎の小さな町では、高齢化の波が押し寄せている。足腰が痛いだの、高血圧の薬が欠かせないだのと鬱陶しい話が多い。
若いころからの夢だったというから、彼の渡航は明るい話題の一つと言ってよい。彼にとって海外へ出るのが珍しいことではないから心が急くというほどでもなかろうが、ずっと念願していたので、わくわくして出発したようである。
彼は年金生活をしており、それほど裕福に生活しているわけではない。いやむしろ衣食を切り詰め、学生時代のように暮らしている。かつてどうだったかは知らないし、私にはどうでもよいことである。
それでは彼が何に贅沢しているかというと、まあ趣味だと言ってよかろう。壮年時代に自宅でヨットを作り始め、周りを驚かせたりしていた。今では主として瀬戸内海をうろついている。
近頃はそれにも飽き足らず山小屋を作り始めており、外装をほぼ終えて内装に取り掛かっている。
彼を見ていると、生活やつれが見られない。アルバイトでまとまった金が入ったというので、念願していた海外旅行が視野に入ったのかもしれない。あればあるだけ使ってしまうようだ。
なぜこれほど趣味に生きられるのか分からないが、何かへのめり込むことで生きる実感を求めているのかも知れない。何事も道楽の域に達することを念頭に置いているのが証になりそうだ。
私も旅が嫌いではない。若いころはさほどの目的もなく、なけなしの金をはたいてふらふら出かけたものだ。高尚な理屈があった訳でも、遊び心があった訳でもない。
今でもいい加減な性格は変わらないのに、どうゆうものか余程のことがなければ遠出は思いつかない。
なぜ旅をしなくなったのかは、実のところ不明ながら、私が浮草稼業であることに関連するかもしれない。じっと田舎に留まっていても新鮮さを失わないという意味はある。なかなかこの年になっても日常が定着しない。地元の小さな祭りで十分楽しめる。
私の周りでは、あちこちで終活という言葉が聞こえてくる。やり残したことを一つ一つこなしていけるなら、この上ない喜びだろう。誰しも、身軽になっておさらばできるなら生きてきた甲斐があるというものだ。
なのに、私はやり残したものばかりなので、今やりたいことがすぐには思い浮かばない。面白みに欠けるとしても、今までやってきたことを続けるだけである。

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