赤谷町

私が住んでいるのは常磐町と書いて「ときわまち」と読む。この地区の役員を拝命して銀行に登録する際、迂闊にも「ときわちょう」と振り仮名してやり直しになったことがある。確かに、公文書なので読み方が変わるのはまずいのだろう。私は、やっとその時に、「ときわまち」が正式名称だと思い知ったのである。だが、これがどこでも通用するわけではない。
そう言えば、吉田川の南にあたる南町では「立町(たてまち)」「新町(しんまち)」「今町(いままち)」など古い所は「まち」と呼んで、「チョウ」とは言わない。この点、北町にあたる「本町(ほんまち)」「職人町(しょくにんまち)」等も同じである。
私の持っている最も古い地図は「稲葉家史料」の中にあるもので、十六世紀末まで遡れる。就中「侍町」「コダラ町」などと共に「赤谷町」が記されている。八幡では最も古い町名の一つになるかもしれない。
南町では塩屋町、新町などがもっとも早く開けたと考えていたので、赤谷に町がついているのは少しばかり以外だった。もっとも赤谷は東へ和良や旧明方へつながる街道にあたり、桝形があって番所が置かれていたから、城内という意味があっただろう。城内であれば町がついても不思議はない。
「寬文年間(1661年-1673年)當八幡繪圖」で赤谷は触れられていないが、侍の家が十軒ほど並んでいる。「舛形」の仕切りに関連する者がいただろう。この点からすれば、「村」という単位では考えにくい意味がある。
下って化政期(1804年-1830年)では、単に「赤谷」と記されたものが多く、町だか村だか分からない。この点は明治に入っても同じようだが、「水害志」によると同二十六年慈恩寺山の土砂崩れによって「土石流が赤谷町に至り」とあるから、公式非公式は分からないとしても、町として認識されていた。明治末年あたりでも「赤谷」と呼ばれた記録がある。ところが、現在この辺りは「愛宕町(あたごチョウ)」と呼ばれている。今のところ、いつ何故「赤谷町」から「愛宕町(あたごチョウ)」に変わったのか分からない。
そう言えば、「城南町(ジョウナンチョウ)」「橋本町(はしもとチョウ)」などもやはり「チョウ」と読む。「橋本町(はしもとチョウ)」はかつての「塩屋町(しおやまち)」だと言ってよかろう。以上から、「赤谷町」をどう読むか。
1 「カハラ町(まち)」「立町(たてまち)」など古くからの地名がすべて「まち」である。
2 「塩屋町(しほやまち)」から「橋本町(はしもとチョウ)」への移り変わりからすると、「赤谷町」から「愛宕町(あたごチョウ)」になったと考えられる。
3 「赤谷町」もまた城内である。
以上から、「赤谷町」を「あかだに-まち」ないし「あかたに-まち」と呼んでいたのではないかと考えてみた。

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