とうふ

今ありふれたものだからと言って、いつもそうだとは言えない。私の少年期に卵は高価なもので、病気見舞いに使われたりした。はるばる遠くまで自転車に乗ってお使いに行ったことを覚えている。
今、「文化三年(1806年)寅正月 香奠帳」という史料を読んでいる。六歳の女の子が死亡し、これを弔ったときの記録である。死亡時刻は記されているが、死因には触れられていない。
「香奠帳」なので、主として町内の人から頂いた香典を記録したものである。その他にも葬式での主要な役割分担をしているし、弔いの記録という側面を持っている。
ただしこれには、一段落した後に行われる「御立(おったて)」の献立は記されていない。
「香奠」としては「青銅〇疋」などと記される銭のほか、現物で豆腐やこんにゃくなどの食品、ロウソクなどが記されている。ここで豆腐の項目が多いのに驚かされる。
最も量が多いと思われるものは「とうふ 壹箱」だが、残念ながら一箱に幾つ入っていたのかは分からない。殆どは「とうふ三丁」から「とうふ六丁」の範囲に入り、「とうふ 五丁」が最も多い。
葬式の当日か、「とうふ百丁 こんにゃく三十五丁」というのがある。ずいぶん多い。この他、前後に各家から香奠として出されたものを合わせると、合計で豆腐が二百数十丁という具合である。
近頃は「半丁」で売られることが多い。「一丁」はその倍である。昔の豆腐は今より堅かったらしく、縄で巻いて持ち運びできるものもあったそうだ。今より日持ちしたと思う。
が、これを本当に食べきれるのか大いに疑問だった。幾ら大棚とは言え、不自然な量である。当時豆腐一丁が幾らだったのか分からないまま、単に銭を豆腐で換算したのかなとも考えてみたが、どうやら違うようだ。
つい最近まで町から離れたところでは、通夜から葬式までお参りに来た人すべてに食事をふるまったという話を聞いたことがある。田舎では殆どの家に、豆腐を作る道具があった。塩を相当量確保していただろうから、にがりを手に入れることはそう難しくなかっただろう。大豆さえ用意しておけば、いざという時に豆腐を作れる。
だが町屋ではそうはいかない。豆腐を買うしかなかっただろう。こんにゃくもまた同じで、芋を保存している家なら作れるだろうが、やはり町屋ではそうはいかない。
豆腐は様々な調理で使いやすいので、いくらあっても困らないという事情があったかもしれない。葬式の期間が今より長いとすれば、この数でもおかしくないのかなあ。
大都市なら既に町人の食べ物になっていたかもしれないが、ここら辺りで豆腐は慶弔時に食べる特別なものだったことが分かる。

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