三代

三代と言えばまず中国古代の三代が思い浮かぶ。夏、殷、周の三王朝である。普段読んでいるのが古臭い文献ばかりなので、もうこうなると限りなく病気に近い。ただし今回は私から孫までの三代なので、ごくありふれた話である。
近頃、私の周りで孫がどんどん生まれている。特に年齢の近い友人について言うと、どんどん爺になっている。
ただし、この書き方には問題があるかもしれない。母体のことを考えているからか、以前より妊娠期間が少しばかり短くなっていると聞いたことがある。が、まあ昔からの言い方では十月十日(とつきとおか)お腹に居て、生みの苦しみを味わうのだから、まずは母親と赤ん坊の絆を第一に考えるのがよさそうだ。そして父親、母親と子供の関係があって、やっとそれから爺婆と孫の繋がりが生まれる。
生まれてみれば当たり前のように見えるけれども、まさにこの自分が爺さんになれたというのは、幸運が重なっただけのような気がする。
今年のゴールデンウィークは長かった。私の仕事には関係なかったが、浮世は連休で浮き立っているようにみえた。郡上八幡では、新元号を祝うということで、早々と徹夜踊りをやっていた。
子供や孫の帰郷も多かったようだ。田舎は受け入れ側になることが多い。我が家も同じで、結構長く滞在していたように思う。ただ、我が家の孫たちは既に学校へ通うようになっており、かなり楽になっている。
孫が生まれたばかりだと、そうはいかない。夜泣きでないとしても、黄昏泣きも結構しんどいらしい。おむつを替えろだの、腹が減っただのとしょっちゅう泣くので、婆さんはそうでもないとして、爺さんには居場所がなくなってしまう。
この時代だから、後継ぎを意識している家は存外少ないように思う。余程の旧家でないと代を重ねたいという意識は生まれまい。
りっぱな墓があり、一族の者として入ることを前提にして生きていけるのは、安心かもしれない。これはこれで悪くない。私の場合、そうはいかない。孫を持つ身であっても墓はない。私自身は散骨で十分である。受け継いで欲しい名誉も財産もない。
徳川幕府の三代目は家光で、彼がしっかりしていたから長期政権を維持できたというようなことを聞いたことがある。
天皇家も代替わりした。単なる私家でも、長きに亘って重要な地位を続けると、公家の意味合いが出てくる。後継ぎが男の子でないといけないというのも贅沢な話で、そんなに男女の差は無いのではないか。
私には引き継ぐ家がなかったし、始祖として頑張る気もないから、浮世をふらふら生きていくよりない。単なる三世代という意味にすぎないわけだ。

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