韋編三絶

「いへんさんぜつ」と読む。紙ができる前は、いろいろな物の上に書くほかなかった。古くは亀の甲羅や骨、周代は金石に彫り込んでいたし、戦国時代以後は質の良い布や皮にも書いた。また事務用に木や竹に書かれることも多かったようである。
木や竹に穴をあけ、細く切った皮を通して編むことが行われた。ここで言う「韋編」は、「韋」がなめし皮、「編」は「編む」なので、なめし皮で繋いだ木簡や竹簡のことである。「三絶」は文字通りなら三回切れる意味だが、まあ切れる回数が多いというぐらい。従って、丈夫な皮が何度も切れてしまうぐらいよく読むという意味で使われる。
私が普段使う本は殆どぼろぼろである。綴じているところがバラバラになったものがあるし、かろうじて形が残るものでも手垢で黄ばんでいる。
私の世代だから、決して粗雑に扱ったからではない。本に触れる前にはなるだけ手を石鹸で洗うことにしているし、そんな暇のない時でもナプキンで手を拭うことぐらいは心掛けている。
それでも長年同じ本を手にしていると、ページの端がよれよれになるし、黄ばんだ後に黒ずんでくる。
近頃は、気になるところや引用したところに赤鉛筆で線を引く。後で見た時に、思い出したり、同じところを見つけ易くするためだ。これもまた、本に疲労を強いているかもしれない。遠い未来を見越してやることがしんどくなってきたからか、気が短くなっている。
これだけ見れば熱心に読んだ証にはなりそうだ。普通なら自分に「お疲れさま」と言うべきところなのに、まったくその気にならない。
これほど読めば幾ばくかは分かり始めても良さそうなのに、未だ五里霧中である。ただただ作業を繰り返しているだけで、ちっとも身についていないし、血肉になった状態には程遠い。身の丈に合っていなかったからだろう。
昔は読んだ本を古本屋へもって行くので、なるべく綺麗に読み、書き込みをしなかった。今でも金になるならそうすべきだが、近くに気の知れた古本屋がないし、近頃そんなことも面倒になっている。
何かの役に立つかもしれないので、「韋編三絶」の典拠を示しておく。
『史記』に「讀易 韋編三絶 假我數年 若是 我於易則彬彬矣」(卷四十七 孔子世家第十七)とある。孔子は晩年、『易經』を好んで読んでいたらしい。優秀な彼なら隅々まで通暁していただろう。
私の場合そうはいかない。友人から送っていただいた本は別として、死んでしまえばどうせゴミになるだけだから、申し訳ない気もするが、使いつぶす方針で読んでいる。
終活で、本の扱いに困っている人が存外多いそうな。

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