ぼちぼち

この間「ぼちぼち」とすべき場面で「ぼつぼつ」と言い、間違っていると指摘された。その時は多勢に無勢で承諾する他なかったが、ただ何だか腑に落ちない気分である。ネットで検索してみると、どちらも使えるらしい。
「ぼつぼつ」は「まばらに見える様子」「盛んに起こるさま」、「ぼちぼち」は「そろそろ」「のんびり」「そこそこ」で、元々意味が異なっていた。これなら「ぼつぼつ」が発疹のイメージ、「ぼちぼち」が「のんびり」した様子を表しており、何となく違いが分かる。いずれも副詞である。ところが、これらが交じり合い、混乱をきたすようになったらしい。「ぼつぼつ」に「のんびり」の意味が加わったようだ。
そこで本来は共通語として「ぼつぼつ」があり、主に西日本を中心に方言として「ぼちぼち」があったというような解釈が生まれるようになる。
「下る」ものが上方から下る良いものであって、「下らない」ものは良いものではなかったと解する説がある。この傾向が、明治以後でも一部残っていたのではないか。関東の「牛すき鍋」が関西の「すき焼き」に圧倒された経緯もこれに類するような気がする。
かくの如く西部方言であった「ぼちぼち」が「のんびり」「そこそこ」の意味を表す共通語の座についたので、「ぼつぼつ」が逆に方言のような扱いになったのではないか。
そこで自分を振り返ってみた。私は関西の出身である。ということは、はっきりした記憶はないけれども、若い時に「ぼちぼち」を使っていたのだろう。
学生時代はアクセントのない学生言葉を使っていた。関西方言が薄まっていくきっかけになったかもしれない。それから、数年故郷に帰っていた時期を除き、四十年近く郡上で暮らしている。
この歳になって「ぼつぼつ」を使い違和感がなかったとすると、ちょっと大げさかもしれないけれども、私の人生を映しているかもしれない。
郡上は東部方言の西端にあって、多くの単語が西部方言の影響を受けているとしても、アクセントは東部方言と言ってよい。
郡上で古くは「ぼちぼち」「ぼつぼつ」のどちらを使っていたのか調べていない。印象だけ言えば、発疹のような「ぼつぼつ」から「そこそこ」「そろそろ」の意味が加わったのではなかろうか。ここで暮らすうちに、ずっと「ぼつぼつ」で違和感がなかったからである。
ところが浮世で「ぼちぼち」が優勢になり、若い世代がこれを使うようになったので、私が「ぼつぼつ」と言うのを聞き咎めたのではなかろうか。
振り返ってみても、あまり変わったことをしてこなかったように思う。が、この「ぼちぼち」「ぼつぼつ」騒動をみると、何だか不思議な気分になっている。
少年期は「ぼちぼち」というマイナーな関西方言を、老境では「ぼつぼつ」というこれまたマイナーな東部方言を話してきたことになる。
これに何ら違和感がないというのが、愚か者の極みなのかな。

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