努力

急に決まったテーマなので、断っておかねばならないことがある。私は努力を決して軽く見ていないし、しっかりした業績を残す人は多かれ少なかれ何かを犠牲にしてまで打ち込んでいることを知らないわけではない。
ある子が「努力」をテーマにスピーチするというので、凡そのことをまとめておかねばならないらしい。彼は部活の中で最も厳しいものの一つである野球部に属しており、早朝からナイターまで長時間練習に明け暮れているので、誠にふさわしいと思う。
「厳しい練習に耐えるのは容易でない。野球が好きだから耐えられるし、進歩が実感できる。努力だけでは続かないのではないか。」と彼は言う。少年ながら、既に本筋が分かっているように思う。
このご時世、飴と笞では無理だろう。最早、何かを餌にして厳しい練習を強いるのでは立ち行くまい。修行僧ならいざ知らず、精神論で済ますのは納得できないだろう。
彼らが好きなことに没頭できるのなら、それはそれで結構なことだ。例え短期間に成果が上がらないとしても、やる気をそぐことにはなるまい。
何となく野球にあこがれて入部した者は、厳しい練習によって篩(ふるい)にかけられている。高度なことが求められると、練習もハードにならざるを得ない。しかもチーム練習が基本とすれば、各人は相当な犠牲を払わないと続けられないと感じるだろう。
確かに、ただ楽しいことを求めるだけではどこかで壁にぶち当たりそうだ。
ここらあたりをもう少し掘り下げてみよう。それでは、好きでもないしそれほど使命感もないテーマについてはどうか。これこそ努力だけが求められるのだろうか。
いかなる分野であれ、何らかの成果を上げるにはそれなりに習熟する必要がある。三日坊主で可能なら論ずる程のこともない。
私はここでも努力にはそれを支えるものが要ると思う。自らに精神論を課すだけでは継続してやれまい。どうするか。
今のところ好きでないとしても、もう一歩踏み込んで自分が得たいと思うことをつらつら考えてみる。これがポイントである。ここで体が熱くなるようなテーマが浮かべばこれが土台になるし、もやっとしていても後先を思いやれば食指の動くものが出てくるものだ。若い時の自省は人としての奥行きを深めるし、何かと実りを生む。
現在の好き嫌いや成績が人生の羅針盤になることもある。ただし、これらが一時の迷いに過ぎないこともある。ちょっと立ち止まって考えることを薦めたい。
現在の瞬間風速だけで決めるのではなく、自分の将来像をじっくり自分で決める。こうやってもう一つ奥のテーマが見つけられれば継続できそうなので、現状を変えられることもある。
ちょっとしたきっかけで人生が大きく変わるのも悪くない。こんなことを、いい加減な私が論ずるのもどうかとは思うがね。

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