目頭が熱くなる
歳をとると涙腺が緩くなるのだろうか。私は青年時代から「忠臣蔵」が好きで、日本に帰ってくるとまずこれを見て涙を流していた。これはインターナショナルからネイティブへ立ち戻る方法の一つであったし、アイデンティティーを確認する作業だったかもしれない。どのあたりで泣けてくるのかも分かっていたし、感情が高揚すると言っても、どこか遊びがあった。
近ごろ友人との会話で、今にも涙がこぼれそうになることが二度あった。今回は私ではなく相手がである。一度なら書く気はしなかっただろう。二度続くのは最早偶然とは言えまい。
一人目は、小学校の高学年になったばかりのお嬢さんが学校へ行けなくなってしまったという父親の話で、どこまでも真っすぐな男である。
持掛けてみると、彼は語り始めた。どうして行けなくなったのかを掻い摘んで話すうちに、母親が朝二階からおんぶして降りてきた時、「そこまでやるなら学校へ行かなくてもよい」と言ったそうな。その時、気丈な彼の目から涙がこぼれそうになった。
もう一人はよく喫茶店でしゃべっている友人で、やはり小学生の孫が学校へ行けなくなったという話だった。別の小学校へ通う男の子である。細かな事情までは分からないが、いつからかぐずぐずして時間通り学校へ行かなくなった。学校へ遅れがちになり、教室へ入り難くなって来たのだろう、彼も頼まれて学校へ送っていたそうな。
その後、学校へ行けなくなったと言う。そう語った直後だったと思う。感情が目に表れていた。好んで失敗談を語る百戦錬磨の彼が、ぐっと来たのだろう、言葉が詰まって目が潤んでいるように見えた。
子供たちについて言えば、どちらも小学校の低学年から高学年への過程にあり、物事を抽象して考え始める時期である。
私は彼らと面識があり、いずれも人懐こい聡明な子だという印象をもっている。大人が慌ててはいけないし、彼らを慌てさせてもいけない。学校へ行けなくなった辺りの精神状態までは知らないが、楽しいことをやって、ゆっくり振り返る時間さえあれば縺れが解けていくのではあるまいか。私はそれほど心配していない。
それより、いい年をした大人が人前にもかかわらず目を潤ませた点が心を打った。
経験豊富な彼らが子や孫の話になると真っすぐ心配し、感情が表へ出てしまうのが意外だった。が、何も悪くない。むしろ彼らが人として信頼に足ることを示している。
私はどうなんだろう。つらつら考えてみるに、この種の真面目な心配を子や孫へしてこなかったかもしれない。私が関われば、彼らを台無しにしてしまうという心配ならしてきた。
これからも彼らと実感の持てる付き合いを心掛けていきたい。