真実のかけら

この世には真実と嘘が溢れている。あれこれ考えてみたけれども、真実という言葉からは真実が出てこなかった。日常の実態からしか真実は生まれないというごく当たり前のことに行き着いた。
疑うことができないほど人を信頼できるなら、揺るぎない愛情を受け続けてきた結果かもしれない。かくの如き人は荒波を被ったとしても、心のどこかに温かいものが残っているのではなかろうか。それ程多いとは思えないが、彼らは芸術性の高い行為をしそうだ。
数十年前の恨みや面映ゆい思い出が未だに脳裏の一部を占め、間欠泉のように噴き出ることもある。好むと好まざるとにかかわらず、これらが今の感情や思考の土台になってしまう。限りある人生だ、止むを得まい。
ある人にとって真実としても他の人にとってはそうではないとか、ある面では真実だとしても少し視野を広げるだけでその輝きを失ってしまうこともある。
人は人と向かい合って生きていく他ない。対立とまでいかないとしても、自分の思うようになるとは限らないから、いつも穏やかにやっていける訳ではない。
真実は実体のはずなのに、たった二人でも互いに解釈の異なることが稀ではない。どちらも真実だとすれば、お互い引けなくなり、ため息をついたり声を荒げたりする。
真実を基にした正当化なら文句のつけようがないが、それに拘って相手を困らせるのも程度がある。自分だけ正当化し、相手のそれを認めないのではいつまでも火種が残る。
相手をやっつけるために話を大げさにするのも、潤色するのもいけない。こんなことをやっては碌なことにならない。
こんなループをいい加減抜け出したいのだが、ありふれた凡人の身、歳をとっても相変わらず自分の正当性とやらを後生大事に温めている。
すっきりした解決策はめったにない。若い時なら体を熱くして語り合うこともできるが、最早そんな気にならない。相手を思いやって自分の主張を和らげることぐらいしか思いつかない。或いは、その真実とやらから身を遠ざけ、もう少しだけ俯瞰してみるのが有効なのかもしれない。
壮年期にしても大量の情報を、その都度自分が気に入っている基準で整理する他なかった。事実をもとにじっくり考えたつもりでも、切り口の鋭さや論理の精妙さなどを気にするあまり、どうしても現実から離れてしまう。真実という言葉を避けてきた所以である。
殆ど何の準備もしていないのに、歳を取るだけで熟した生き方ができるはずもない。灰になるまでもがくしかなさそうだ。

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