出口

入口に対する出口である。何らかの施設から外へ出る口ということで、狭い所から広い方へ出るニュアンスがある。
新型コロナが世界中に広がってしまい甚大な被害を及ぼしている。志半ばにして亡くなった方へは哀悼の意を述べると共に、現在も病院などで闘病している人には回復を願っている。
日本においても、一万人以上が罹患し死亡者も多数であるし、まだ重篤な状態にある人も多いと思われる。断腸の思いだ。
連休の自粛が効いたのか、今月の中旬に至って新規の感染者数が目に見えて減ってきたように見える。
まずは各人の自制を称えると共に、医療関係者のご努力に感謝したい。行政に携わる人もまた勇気をもって対応していることは確かだろう。
ここのところ岐阜県においても、しばらく新たな感染者が出ていない。十日を過ぎ二週間になろうとしている。
隣県である愛知の新規感染者がほぼ無くなってきているので、岐阜においても明るい兆しが出てきているように思われる。
とは言え、死者の数が確実に増えている現状からすれば、まだ流行の最中にあることは認めざるを得まい。
検査キットも出回り始めたし、治療薬もぼつぼつ視野に入ってきた。私にはまだ使い捨てタイプのマスクは届いていないが、国内メーカーの参入があって、近頃ネットを通じ妥当な値段で手に入れられるそうな。今私は、いくつか頂いたお手製マスクを使っている。国からも布製のマスクが配布される予定である。これら、物に関しては徐々に戦えるようになってきたと言えそうだ。
岐阜県下の公立高校は現在オンライン授業が行われている。初期の混乱がようやく収まりかけている状況といってよかろう。だが、生徒も教師も順調にこなしているとは言えまい。
限られた時間で進まねばならず、先生の説明が簡略すぎる上、どうしても宿題が多くなる。例え六月に学校が再開できても、当分はクラスを二分してやるそうなので取り戻すどころではない。真剣に学期を九月から始める体制を議論しなければならないのではないか。
ここのところ出てきた明るい兆しを喜ぶことにしよう。それはそれでよい。自主の精神で得たものである。私は明治以後の近代化に少し自信を持てるようになった。
ぎりぎり耐えている人はこれで安堵するかもしれない。だが、又トンネルへ入る可能性がある。心して乗り越えようではないか。

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