郡上の両面宿儺
郡上では馴染みが無いかも知れない。宿儺(すくな)カボチャなら聞くことがあっても、両面宿儺になると地方史に詳しい人でも薄っすらと思い出すぐらいではなかろうか。
兩面宿儺は飛騨で広く伝承される。一般には顔を二つ持つ異形の鬼神と考えられている。但し、宿儺は飛騨金山では饑饉に苦しむ人々のために祈りをささげた英雄として伝承されている。だが金山は飛騨である。またこの地では円空作の両面宿儺も知られているが、彼自身は郡上に深く根ざすとしても、宿儺が郡上に関連する保証はない。
従ってここからは私の仮説であって、どれほど説得力をもつのかはよくわからない。郡上に近くて関連しそうな飛騨川筋に話を絞ってみると、上で取り上げた金山での伝説に加え、上呂の久津八幡宮に残される伝説も確かである。
ここで使われている「上呂」の「呂」は『説文』で「背骨」を表し、またそのようなものとしてここでも触れたことがある。今回はもう一歩踏み込んでみよう。
『説文』はまた「呂」の篆書体として「膂」の形を上げている。「膂」はまた「旅」と通じることがあり、「呂」「旅」を通字とみるこができる。「旅」ならば「軍旅」「振旅」など軍事を表し、飛騨川筋の上呂、中呂、下呂は軍の征伐ないし侵攻とその順序を表していることになる。
ここで久津八幡宮の拝殿が立派な四本柱であったことが思い浮かぶ。これは中呂萩原の諏訪神社や小坂の諏訪神社とも共通する。従って飛騨川筋の諏訪信仰と両面宿儺は金山を含めて連続している。
飛騨川支流となる馬瀬川筋についてはどうか。祖師野八幡宮の拝殿や本殿の四本柱からは本来諏訪大社系だったと解せる。これより下流にある藤後野(とごの)の諏訪神社を含め、馬瀬川筋にも諏訪信仰はそれなりに広がっていただろう。政府軍が武儀の方からやってきたのか東農の方から入ってきたのかは案がないけれでも、飛騨川の中山七里という難所を避けるために支流にあたる馬瀬川を経由したと考えれば筋は通っている。
久津八幡宮及び祖師野八幡宮がそれぞれいつごろ八幡信仰になったのか不明ながら、四本柱から諏訪信仰の上に八幡神がかぶさっている形と思われる。こういった神々の争いからも両面宿儺と諏訪信仰が強く結びついていることにならないか。
馬瀬川筋は下保という名から、郡衙が設置されたときから郡上であった可能性がある。つまり馬瀬川筋は武儀の管轄下にあって飛騨川筋を攻略する根拠になったので、郡衙設置の時点で和良郷として郡上へ編入されたと考えてみたい。
なぜ郡上郡が長良川筋のみならず木曽川水系を含むのかは、かくの如く両面宿儺を攻略しようとした経緯があったからではないか。 髭じいさん