場のつく地名拾遺

前回ランダバという小字を取り上げてみた。郡上では、ラ行で始まる地名は四五六の六やロクロに関連しそうなものを除いてほぼ無いと言ってよかろう。古いとすれば仏教と関連するかも知れない。他に例がないのだから、じっくり取り組むよりなかろう。

この他にも糸口を見つける事すら難しいものが幾つかある。八幡市島の五六場(ごろくば)、和良鹿倉の大陳場(ダイチンば)などだ。皆さん、見当がつきますか。

五六場は「ごろくば」と読む。五六は「五寸角、六寸角のような、太くしっかりした材」と解することがある。(「大物(だいもつ) の五六にて打ちつけたる桟敷」〈『太平記』二七〉)。場は特定した役割を持つ地とすれば、木場や古場と同系の語とし、大きな材を貯木しておく場所とも解せる。

大陳場(ダイチンば)もまた難しい。郡上で「陳」という文字を使う字は他にない。わざわざこの文字を使っているのだから、これでなければならない事情があったのではないか。

『説文』で「陳」は「陳 宛丘也 舜後嬀滿之所封」(十四篇下070)で封地となっているが、古くから「そなへ、いくさ」という義を持っており、「陳」「陣」を同じ文字として扱っている。私はここでも「陳」「陣」が通用するのみならず、異体と見られる点を重視する。つまり「大陳場」を「大陣場」と考えるのだ。

だが例えこれでよいとしても、いつの時代の話か、誰の陣容なのか分からない。

和良宮地(みやじ)に城山という小字がある。実際に中世の城があったと聞いている。これに対して陣を布いたのかもしれないが、多少大袈裟な気もする。

私は又、毘沙門を介して市島の京塚と関連するかも知れないと考えている。市島には京塚のほか中塚、六人塚などいくつか塚のあることが知られている。京塚が郡上郡衙設置まで遡れるとすれば、この大陳場もまた関連するかも知れない。地理上から言えば、宮地にある九頭宮を背景にしているので、小野から徐々に吉田川を遡っていた郡衙の勢力と市島あたりで大きな衝突をしたのだろうか。

郡上踊りの「三百」に「土京鹿倉のどんびき踊り 一ツとんでは目をくます」という文句がある。町衆の田舎を小ばかにした歌詞と思えるが、それにしては念が入っている。九頭宮は祖師野八幡宮と同様、古代から中世を通じて崇拝の対象であったことは間違いなかろう。他方で土京、鹿倉が異質な地として認識されていたのではないか。

史料の全くない地方古代史へ切り込むには方法が限られている。郡上においても全くしかり。郡衙の設置は疑えないとしても、実際はどこにあったかについてすら諸説入り乱れて定説がない。これが判明する史料が現れるまで何もしないという訳にもいかない。それぞれが得意とする分野を持ち寄り、徐々に外堀りを埋めていく他なかろう。

今のところ単なる推測と言われても言い返せない。仮説なんぞこんなものだがね。                                               髭じいさん

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