栃の話

私が栃を認識するようになったのは、大学に入って山登りをするようになってからだ。それまでは植物名としていくらか知識がある程度で、実際にはそれとして見たこともなかった気がする。徳本(とくごう)峠へ近づくにつれ、七曲りだかの苦しい登りの最中に道の脇に落ちていた。栗にしては小さめだなと思いながら、実際には栗だと思っていた。ポケットに一個入れて峠の小屋に着き、暫く休んで上高地へ向かった。それが栗ではなく、栃の実だと分かったのがいつだったか覚えていない。この山行中だったのか、それ以後だったのか定かでない。

こちらへ引っ越してから、しょっちゅう耳にすることになる。こちらでは栃の実煎餅やら栃餅は定番の食べ物である。栃の実は下処理が大変で、あく抜きを根気にやらねばならない。今となっては高級食材になったしまった感がある。

栃の実煎餅は私が八幡に来てはまったもので、当時あちこちで焼かれていた。確か下川筋にもあって、焼き立ての香ばしい煎餅を買ったことがある。他にも煎餅を焼いていた近くの店も閉まったように記憶している。職人が廃業するのは寂しいが、それぞれ理由があったのだろう。

栃餅もまた定番で、気の利いた穀屋なら必ず売っているし、何なら自家製に拘っている人も少なくない。食べ方は色々で、私はこんがり焼いて砂糖を付けながら食べる時期があった。聞いてみると砂糖醤油につけるだの、お茶につけてから砂糖でたべるだの色々である。或いは各地にそれぞれ伝統の食べ方があるのかも知れない。

郡上で木に関する地名を集めていると、杉檜が一番多いのかと思いきやさにあらず。しっかり統計を取っていないが、小字について言えば、栃に関するものが最も多い。

栃洞、橡洞(とちぼら)、奥栃洞(おくとちぼら)、、栃ヶ洞(とちがほら)、栃棚(とちだな)、栃の前、栃本(とちのもと)、栃木島(宮地 とちのきじま)などは栃を中心に地名がつけられている。食栃(じきとち)、栃林(とちばやし)は食料として大事なことが瞭然であるし、またワセドチ、赤栃、若栃は種類などを指していると言えそうだ。

栃は実を食べるのは勿論、木製品の材としても使われてきた。我が家には似つかわしくない高級な栃製の盆がある。木目に変化があり、大昔、気に入って買ってしまったものだ。

古来より栗やドングリと並んで、栃は重要な食糧とされてきた。これが現代まで連綿と継承されていることを驚くと共に、この土地の最も深いところに根差す食文化の一つがしっかり現役なのだと言っても過言ではあるまい。

数年前だったか、郡上から越前大野を経て白山市へ行くことがあった。途中、和菓子屋で「栃の実饅頭」だかの名物を食べたことがある。外側が柔らかい皮で濃厚な栃の香りがしており、中の餡子とよく合っていた。してみると、栃を名物にするのは郡上に限らないかも知れない。                                               髭じいさん

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