ツイ洞
「ツイ洞」は郡上にある小字だ。通称地名にあるかもしれないが、現状私が確かめられるのは五町と小駄良筋の河鹿(かじか)の二か箇所である。これを取り上げるのは早計かもしれない。ただゴールの近い身なので、ここら辺りで一区切りをつけておきたい。
二か所共にカタカナ地名なので、伝承が失われているのは間違いあるまい。用例も少ないし、慎重に解析しなければならない。どちらも、かつて火葬場や墓場があったらしい。このことから埋葬に関連しそうなことが認められよう。とすれば、「終(つい)の棲家」の「終(つい)」ではないか。
私はこれを郡上に散在している「露洞(つゆぼら)」を基にしているような気がしている。
例えば「行く」が「ゆく」から「いく」、「言う」が「ゆう」から「いう」、更に「十本」が「じゅっぽん」が「じっぽん」等と、「ゆ」が退化して「い」になる例が頭に浮かぶ。郡上で言えば、「鮎(あゆ)掛け」が「あい掛け」になるなどだ。これらから「露(つゆ)」から「ツイ」へ変化したのではないか。
「露洞」については、まだ火葬場や墓地があったかどうか確認できていないが、その可能性があると感じている。とすれば、「つい洞」「露洞」がいずれも和語である点に興味が行く。
郡上において墓地は白鳥長滝や美並白山の「三昧(ザンマイ、サンマイ)」、和良宮代の「念仏洞(ネンブツぼら)」など仏教用語が使われることが多い。和良鹿倉の「オンボ川」も、「隠亡(オンボウ)」が原形だろうから、やはり音で読まれている。
これらを見れば、この前「東坊(トウボ)」「武洞(ムトウ)」という小字をそれぞれ「塔墓」「無塔」と仏教用語として解釋したことの傍証になっているかも知れない。
これらに対し、火葬場や墓地に「つい」「つゆ」という和名がつけられている点が偶然とは思えない。郡上では十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、蓮如の影響が一気に広がり、天台宗から真宗へ転じた寺が多いことに関連しそうだ。
それまで殆んど風葬や鳥葬などの野辺送りや土葬であったものが、火葬になるというのは尋常なことではない。葬制や墓制だけでなく、死者に対する思いもすっかり変わってしまっただろう。
これは又仏教が国家鎮護の法となって以来、鎌倉時代に目を民衆へ向けた宗教改革をへて、やっと民衆の心へたどり着いた証なのではないか。
私は墓地地名の和語への変化がこの大きな流れの一端を示していると感じている。
飛騨地区は割合、禅宗が強くて土葬が多かったと聞いている。この地方だけでも様々な変わり方をしたに違いあるまい。だが、新たな真宗の広がりが深く浸透していくにつれ、他宗の者といえどその変化を感じざるを得なかっただろう。私はこれらを郡上で起こった特別なものとは考えていない。
髭じいさん