野辺の話
なぜキツネやタヌキが人に化けるのか、カラスがなぜ神話で重要な働きをするのかを考えたことがありますか。今回はこの疑問を解く糸口になっているかも知れない。
振り返ってみると十年ほど前に、「野と原」というテーマで「野」を取り上げたことがある。「野」は里偏に予を音符とする形声なので、字形から鄙人の暮らすイメージが持てること、郡上市を俯瞰してみると美並、八幡、和良など南部にやや用例が多いことを示してきた。
今回は「の」という訓について検証してみよう。
「野首(のくび)」「野尻(のじり)」「野添(のぞへ)」「野里(のざと)」などは「野」が語頭につく集落名であり、「母野(はんの)」「木尾(こんの)」「福野(ふくの)」「吉野(よしの)」などは語尾につく。
語尾につく場合は、現在では、大字が多く網羅する範囲が大きい。これに対し語頭につくのは熟語として「野」の一部を指すことが多いように思える。
「野(の)」の意味は方言を中心として、1、田畑、野良 2、牛馬の放牧場 3、草むら 4、墓地の四つが考えられている。今回は4の墓地を取り上げてみたい。つまり「野辺(のべ)送り」の「野(の)」である。
京都の化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)などはもともと土葬できない者の屍を運んだ場所だった。これからすれば単なる方言とは言えないわけだ。郡上でも同様のことがあったことは間違いあるまい。
かつて死者を土葬する者もされる者も恵まれていた。土葬は一人一人別々に埋葬するので手間も場所も要る。家族が多くなれば死者の数も多くなる。場所に余裕のない者は里から離れた地で風葬や鳥獣葬を行う他なかった。屍は埋められることもなく岩屋などに放置され、鳥獣にその始末を委ねたのである。
この地でも屍を置く場所とし「野(の)」が使われている場合があっただろう。高山市上野町の「むくら野」は「むくろ野」とすれば、まさにこの遺称地と言えそうだし、八幡町初音にはまさに「野(の)」という小字がある。また那比には「場ケ野(ばがの)」「化野(べがの?)」がある。これらに対して「京ケ野」「念仏野」などは仏教に関連しそうなのでやや遅れて生まれた印象がある。
ここでキツネやタヌキなどが登場する。彼らは雑食であり、屍を綺麗に食べ尽くしてくれただろう。先祖を綺麗にしてくれたとなると、彼らに畏敬の念を抱くことになる。かくして彼ら自身が人の化身となるのは自然のなりゆきであり、姿を変えて人になることが現実の事として感じられるようになったのではないか。また生きている人にキツネが憑くようなこともあった。
火葬が一般化するようになって、この様な話がリアリティを失い、神の使いなどと昇華される。キツネは食用にされないが、タヌキは食べられることがあった。これはキツネが益獣と見なされ、タヌキが農作物などに悪戯するというようなことがあって軽視されたというような事情があったのかも知れない。 髭じいさん