忘却
もともと物覚えがよろしくないので、若い頃から何かを覚えようと努力してこなかった。更に物忘れが激しいので、青壮年時はもちろん今に至っても、頭に浮かんでは消えることを繰り返すのみである。「知識を蓄え、前後に知略を巡らし、果敢に行動する」は私の憧れではあっても、この歳にして叶わぬ願いである。これからも手に入るまい。
それではなぜ物覚えがよくないのか。この歳になって、何が身についたのかをつらつら考えてみても思い当たる事はほんの少しだ。これは私の性格と関連しそうである。
細やかな技術であれ複雑な概念であれ、まずはこれらを求める志が高くなければなるまい。但し志が高いだけでも手に入らない。日々怠らず取り組んでこそ、求めることが少しずつでも身についていく。
私は何かにつけこういう粘り強さが欠けており、その場その場でなんとか凌げればそれで善しとする気風がある。今思えば、私には通じて根気がなかったのだろう。
私の場合は更に遊びを優先してしまい、これに執着して頭の疲れることが多かったようだ。疲れてしまえば何事にも向上心を失う。こうなると大切なことが身につかず消えていく。
衣食住についてもそうだし、崇高な精神にしても殊更望むことはなかった。平凡な日常を何事もなく過ごせればこれに勝るものはない。これはもう私の価値観と言ってよいかもしれない。
とは言え、この憂き世で一人前に生きていくことは容易でない。高い生活水準を望まないとしても、庶民として生きていくこと自体が難しい。幸い体が丈夫だったので、なんとか切り抜けてこれたという事だろう。
価値観と言えば、私は知識の量を求めたことはないし、質を高めようとすることもなかった。むしろ忘却をフィルターのように使ってきたように思う。忘れるもの、消え去るものはそれほど大切なものではないというわけだ。
物覚えが悪く、もの忘れが激しいというのは、これにはこれの良いところもある。奥行きはなくとも、一瞬の連続として生きているという実感を持てることがある。
なぜ物覚えが悪いのか、なぜもの忘れが酷いのかは人によって色々事情が違うだろう。この歳になって少しばかり分かったことがある。しっかり自分の事として眼前に据え、繰り返し取り組んできたものだけが自分のものとして残るということだ。
『禮記』「夫苦其難而不知其益也」(卷第三十六 學記・07)の鄭注に「學不心解 則忘之易」とあるのが面白い。学ぶとしても、心から理解しこれを日々更新していかなければすぐに忘れてしまう。 髭じいさん