家庭と宗教

 現在の公教育では一宗一派に偏った宗教教育を禁じています。子ども個人としての信教の自由があっても、それを特定の宗教にしぼって公教育することの禁止であって、宗教教育そのものを否定しているのではないはずです。
 このへんのはきちがえが、個人としての子どもたちの宗教心を啓培することまでも、まるで罪悪視するかの風潮がまま見受けられます。ただ単にこのことを慨嘆しているだけでは、もはやすまされない事態が家庭を中心に、学校や地域社会に子どもの心と身体の不健全要因として起こってきています。
 人間として成長する上で欠くことのできない「人間としての生き方」の問題が軽視された学びは、ただ知識技能に猛た小利口なエゴイストをつくるだけです。「教育はその本質において、子どもが自らの人間性を開発していくことができるような形でなされるべきものである。」と、教科書裁判第一審杉本判決は述べています。今、人間にとって教えられる、学ぶことの意味がわからなくなっている時代だともいえます。
 そんな中で家庭は、少なくとも人間の真に憩う場であり、人間らしい心のふれあいの場として大事にされなければなりません。そのためにはまず家庭が、「もったいない」「ありがたい」「すまない」という自他を共に尊重し合う人間教育の原点を大切にすることがなければならないと思います。なぜなら、これらの基本的人間感情へ(宗教感情)がどの家庭においても豊かに育っているところに、人間社会の真の連帯や結合があるからです。
 ところで、宗教的情操の涵養は、人間としての学びのもっとも基本です。しかし、敬虔にして崇高な情操は、単に知識教育で培われるものでは決してありません。自己のいのちのあり方や、生きる意味という人間の至奥の問いに対して、真に応答しうる真実の宗教に頼らずして本当の智慧は与えられません。宗教的情操の涵養は信仰への帰依なくして身につくものではないのです。
 今日、家庭が人間を育てうる機能を回復するのには、家庭を形成する大人(親)一人一人が「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。」と教えられた教法に心の耳を開いて聞く以外にはないと考えます。

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