痛ましい事件を通して

 誰もがやり切れない憤りと怒りを感じた大阪池田小学校児童無差別殺傷事件。被害にあった幼い児童は無法な沫ヘの中でどれほどの恐怖と苦しみの中におかれたかと思うと胸が痛む。犯人Tは当時精神異常で刑事責任迫ヘありや否やが問われている。昨今の一連の少年たちの殺人や二審でも死刑判決が言い渡されたMについて、精神病理学の野田正彰氏は、「これらの事件を起こした人のほとんどが正確には病気ではない。異常と見られることも、本人の性格と見るほうが正しい」と。また、Tについて精神科医の岩井月i氏も「彼は精神分裂症ではなく、反社会性人格障害だろう」と指摘している。神戸のA少年事件、西鉄バス乗っ取り事件の少年たちは「行為障害」と認定された。思春期の行為障害は、成人すると人格障害になる恐れがあるといわれている。
 人格障害に陥る原因は複雑だが、生育環境や父性の欠如が大きな要素を占めるといわれている。精神分裂を装ったTによって精神の病に苦しむ人たちへのいわれなき偏見と差別が助長されようとした。よくよく誤解のないようにしたい。
 一連の犯行が行為障害、人格障害であるなら、先天的な障害ではなく、彼らの育った環境によって醸成されてきた後天的なものであるといえる。だとするなら、環境形成者としてのわれわれ大人全てに投げかけられた問題である。人格障害を生み出す環境そのものがすでに人間が人間としてなっていく上で汚染された環境であることを裏付けしているのだから。
 三年前に亡くなったマザーテレサと、「日本人の表情が貧しく暗いのは、正しい信仰をもっていないからだ」と述べ、世界で飢えた国がアフリカと日本だといい、日本の飢えは精神の飢えだともいわれた。事件を生み出す背景をいみじくも指摘されていないだろうか。飽くなき欲望追求の道を突き進み、利害損得勘定に振り回され、自分さえよければの利己主義を問いただそうともしない、そんな生活には輝きがない。さらには、問題の本質をいつでも外に問い、他者を裁く善人根性から抜けきれない私の生き方。その浅ましさ愚かさに信心の智慧によって目覚めた人は明るい、我が身を「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」といただき、悪人を自覚する。「善人は顔が暗い、悪人は顔が明るい」(曽我量深)といわれる所以である。「南無」と本当の自分に帰る私が求められているのではないだろうか。糸の切れたタコ、要を失った扇のような空しい人生で終わらないために。

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