原理主義

 9月11日ニューヨークの国際貿易センタービルなどを襲ったテロ事件以来、「イスラム原理主義」と云う言葉が大きく私たちの日常に侵入し続けている。「原理主義」について心理学者の林道義氏のホームページで論じてあったことを引用すれば、『原理主義とは客観的には教条主義のことであり、教義を言葉どおり、例外を許さず押し付けることである。教条主義はすべての宗教、主義につきもので、必ずと云っていいほど、個人崇拝を伴う。そして、他の思想や、宗教を持つ人に対して非常に排他的、抑圧的、支配的になる。』と云っている。▲タリバーンがバーミヤンの歴史的仏教建造物を見せしめのように破壊した事件は記憶に新しい。そして、今から30年程前に中国において、「文化大革命」の名のもとに毛沢東語録を手にした紅衛兵が大衆を弾圧し、歴史遺産を破棄した事実は教条主義の典型であろう。こうした教条主義に代浮ウれる「主義」というものについて、林氏は次のように解説している。『第一に、主義の内容はすべて元型的な性質を持っている。 第二に、集合的意識と同一化した人間が、主義にとりつかれる。第三に、エロスを失った人間、ゼーレとの結びつきを失った人間が、主義にとりつかれる。』▲これを筆者なりに解釈すれば、第一は自己を絶対者=神と同一に在りたいということ、第二に組織と同一化するためには同じ精神国「=思想、をもつということ、第三は母性=許容、愛、包容力などを失うことによって、極めて硬直で、「純粋」なものに取り憑かれてしまう事が「主義」のもつ性質なのである。こうして見ると、信じるあまり他のことが理解や許容できなくなる形がよくみえてくる。このことは筆者の学生時代の体験によって身に覚えのある事なのである。では「教条主義」を克服するためにはどうしたらよいのだろうか。筆者は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩にヒントがあるのではないかと思っている。あるいは「正しい」ことより「役に立つ」事のほうが人間的なのではないかと思っている。

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