ウサギとカメ

 坊守のニックネームは「カメ」である。4人の子どもたちがまだ小・中学生であった頃、家族一人ひとりにニックネームをつけていたところ、何故か妻には「カメ」と名付けられ、それが定着したようである。その根拠を詳しく聞いたことはないが、日常の生活の中でしばしば「なるほど」と思わせる行動を窺わせることはある。
 ところで「カメ」といえばイソップ物語に出てくる「ウサギとカメ」の話が有名である。「♪もしもしカメよカメさんよ」の物語である。ある著名な評論家が、中国の子どもたちにコツコツ努力精進するカメの生き方を讃えて話したら、猛烈に反発のことばが返ってきたそうです。「何故カメさんは、ウサギさんがうっかり寝過ごしているのを起こしてやらなかったのか」「カメさんはズルイではないか、フェアではない」というようにです。人間のあり方や生き方の視点をどこにおいて考えるかで随分受け止め方も違ってくるものです。皆さんは何を示唆する寓話だと考えますか。
 この物語について『同朋新聞』編集委員の亀井鑛さんは「ウサギとカメは人間の生き方の二態を象徴している。歩みの鈍いカメを自分と比較し、計算し、差別して相手を見下げて優越感に浸ります。昔からこれを“ふたごころ”“はからい”“分別”といわれます。自分の都合のいい方をとり、他を捨てる、自力人間心である。そしてウサギは己が力量を過信し、相手を見くびっている。」一方カメについては「カメは自分と相手を比較しません。自分に携わった能力を精一杯尽すだけのマイペース、勝ち負けも対立もない世界。カメこそは本来の私たち人間の生き方を示しています。ウサギのふたごころの反対“一心”です。一心とは南無、一心帰命のこころ。無執着、無計算の境地、これを他力という」と。
 なるほど、ウサギはいつも「世界のうちでお前ほど歩みの鈍いものはない」と軽蔑し、見下し、本来比較の対象にならないカメと比べて一人優越感を味わい、あおの傲慢さがやがて油断をまねいて思わぬ失態を演じる。他者と比べて優越感に酔いしれ、あるいは幸せを思う心は、逆に比べて劣等感を抱き、自身の不幸を思い嘆く心と同質の心である。比較して自分の存在を確かめたいのが人情。しかし、比べることの無意味さ、生き方の狭量さを改めて教えられる。一方カメの自然体がいかにも広い世界の明るい生き方を示唆している。この物語は、ウサギに象徴される人間の差別心に立って比較し、善し悪しを判断していることの愚かさを問いかけてきている。妻がカメの自然体を生きているというわけではないが、極めてウサギの要素を濃く持つ私から見れば、子どもたちの目に映る姿はやはりカメなのであろうか。

前の記事

裏切り御免!

次の記事

誕生日と免許の更新