理屈っぽい

そもそも私が理屈をこねるのがうまいかと言うと、否である。とつとつと話しながらも説得力があるかと言うと、また否である。
従って、私の書くこと、言うことがどうしても屁理屈になるのは仕方がない。私は、どちらかと言うと、情の世界が好きだ。正義だとか法則だとかは、できるだけ押入れに突っ込んで、かき回さないのが私の流儀である。
ところが、ここ二、三回のコラムが理屈っぽいというお叱りを受けた。何となく尻がむずがゆい。さぞかし、賢しらに書いたに違いない。
私は、よく書けたと自画自賛する癖があり、自分の書いたものをすぐに見直すことを好まない。だから、推敲もせず、読み手の感情も斟酌せず、ただ書き散らすことになってしまう。
私が下手な理屈をこねたのは、書いたことが「こなれていない」からかも知れないし、準備が足りないこともあっただろう。だが、これは私にとってなんとなくうれしい驚きなのである。そういうことが私にもできるのだなあ、という思いがある。
私の人生訓に、「できるだけ推論はするな」、というやつがある。なるべく確かな事実を判断の基準にしたいからである。だから、既に推理や推論する力が失せていると考えていた。知らず知らずのうちに理屈をこねていたとすれば、本来私は屁理屈が好きなのかもしれない。新たな発見である。
なぜこの人生訓が身についたのか今となっては分からないが、どうせ知ったかぶりの理屈をこねてひどい目にあったからだろう。まあ、こんなことはどうでもよろしい。
こうなると、少しはなるほどと言われるような理屈を言ってみたいものだ。

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