書くこと話すこと

私は、つい最近まで、何かを書いて人に見てもらうことはなかった。筆不精で、年賀状もほとんどが型にはまったものしか書かない。ところが、このコラムを担当するようになって、書くことの難しさや面白さが幾らか分かってきたように思う。
人は、どうしても自分に関連することに注意が向くし、面白くもない長文を読みたいとは思わないだろう。実は、私もそうである。この筋道からすれば、面白い話題が浮かばない時には書くべきでない。
例え話題があっても、喜んでばかりはいられない。限られたスペースに、自分の述べたいことを盛り込まなければならないのだ。ここまでくれば、各人の流儀が生まれるだろう。私にとっては、この限られた字数が救いなのである。
これに対し話す場合は、少しばかり周りの雰囲気さえ掴んでおけば、思うままを述べることも出来る。相手の顔が見えるから、距離感が掴めるのも助かる。また余程のことがない限り、効果を考えて前後を入れ替えるなどということはしないし、記録されることもない。なまじ話し方をいじると、回りくどくなり、もったいぶった言い方になりがちだ。
すべての人が面白く、最後まで楽しめる文章を書けるわけではない。私の文章では、人の役に立ちそうもないことは承知している。自分のことばかり気にして、鬱憤をはらすようなものを書いていないかなど、心配事ばかりである。
自分の考えが隙間だらけで説得力のないことはもちろん、自賛して推敲しないから間違いの多いことも分かっている。だが他方で、その隙間は文勢で分かる場合があるし、間違いは修正もできる。
仲間と会話を楽しむのは確かに得がたい。恥ずかしながら、文章という武器を使って自分を知り、自分を鍛えるのもまた得がたいことなのかもしれない。

前の記事

言い訳

次の記事

国連常任理事国