言い訳

言い訳など良い訳がない。だが、誤った情報を流したままにして置くのも窮屈であるから、少しばかり付き合ってもらいたい。
最近出した「天と空」というコラムで、私は「天」が「一」と「大」の会意字だと述べた。気になったので、幾つか現代の辞書を調べてみると、指事または象形と解かれていたのである。十九世紀以後、甲骨文が発見され、漢字の解釈が進んだ。「天」についても随分研究がなされたようだ。
指事説は「天」を一体とみて、「大」を人とし、上の「一」は人の頭を強調して示していると考える。また象形説は「天」という文字がやはり分解できず、頭部を強調した人そのものに解しているだろう。後者は白川説で、白川氏は甲骨文の研究でもよく知られている。
私が会意と書いたのは後漢代に成立した『説文解字』という辞書に依っており、それ以後ほぼ二千年続いた解釈である。これに安住して最新の成果を取り入れてない訳であるから、勉強不足も甚だしい。
しかし、年を取ると図々しくなるようで、間違いにも愛着が湧いている。現代の研究水準で間違っているからといって、この誤りに全く意味がないというわけでもない。
少なくとも漢代以後長期にわたって会意字とされ、これに基づいた表現が正とされてきたのである。言わば、歴史はこの誤りを巡って展開した。
指事説及び象形説の取捨は議論が必要としても、今のところ秦漢以後の古代史で必要なのは会意説という点は否定できない気がする。
私は、『魏書』東夷傳倭人条に出てくる「一大国」を「天国」と考えている。誤った考えであれ、当時会意説がはやっていたのは歴史上の事実だ。これを後の史料に基づいて「一支国」の誤りと考えるのは頑張りすぎではないか。なにはともあれ、私にとって、「一大国」は一大事なのである。

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