蛙の子は蛙の子

題名を見れば何かの間違いではないかと思う人もいるだろう。そう、諺では「蛙の子は蛙」である。一般に世襲が行われた時代では、跡取りの存在がことのほか重要であった。
どういう訳か、私はこの言い方が好きでない。所詮、人間は親の職業や生き方から大きくは離れられない運命みたいなものを感じるからだ。
私の友人の中に、自分の父親が死亡した年齢を気にする者がいる。何故かよく分からないが、自分がその年齢を越えるとほっとするらしい。私も同じであった。
子供が親を超えても、超えられなくても不思議ではない。子供が親父の年齢を超えることに大きな意味があるとは思えないが、これもその基準のひとつには違いあるまい。
とは言っても、私が年齢以外の何かで父親を超えたというわけではない。実際のところ、私の人生は平凡であり、必死の思いで私たちを育ててくれた親を超えたと誇れるものはない。これからも、不安でいっぱいである。
だが、私の生き方は自分で選んできた。必然性のあることも、ないこともである。誰に誇れるわけではないが、誰に恥じるわけでもない。
蛙の子はうまくいっても蛙になるしかない。このことに不満があるわけではない。私はなにも「鳶が鷹を産む」ことを奨励しているのではないのだ。
とは言え、蛙の子は親蛙の後を追っかけるしかない、というわけでもなかろう。蛙の子は蛙の子であって、それ以上でもそれ以下でもない。ゆっくり育って力をつけ、自分の足で歩けるようになれば、思うように生きればよい。
自分の意志で親の後を追うのもよかろうし、違うやり方で生きるのも悪くない。

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