古典のすすめ

若者の古典離れが耳に入る。彼等は忙しすぎるのかも知れないが、嘆くほどのことではあるまい。彼等も、気に入ったものに出会えば、いつでも古典に戻ることができる。
コラムを書くようになって、気づいたことが幾つかある。古典のすごさが実感できたこともその一つだ。古典が長い歳月に耐えたことだけでも、真似の出来ないことである。私の書いた文章が生き延びるとは思えないし、少しであれ人に読んでもらえるだけでも僥倖である。
私の場合、高校時代だったか、古典の授業が五時間目などにあると、文法を習う時は特に、強烈な睡魔に襲われたことを思い出す。今思えば、古典を習う目的がはっきりせず、面白さがよく分からなかったからだろう。
今でも文学などというものは高嶺の花であり、細かな心理描写が続くと、やはり眠くなる。和歌や俳句の類も、粗雑な私では目いっぱい精神を集中しても、分からないことが多い。また鏡類などについても、権力者を巡る小さな社会を描くものは、途中で挫折してきた。というような訳で、座右に置いて来た本がない。
周りにいる人が、ふとした時に、古典の一節を口に出すことがある。一瞬にして時空を超え、別世界に入るような気分になったことも一度や二度でない。
同じ物を見ても、彼らには違って見えることが羨ましいと思ったものだ。だがこれは、若い時にしっかり文法の勉強もし、新鮮な心構えで繰り返し古典に取り組んできた人だけが頭の片隅に残るからであって、私には届かない世界である。
古典と言えるかどうか分からないが、『古事記』ならよれよれの二冊目を読んでいる。あちこち旅をするときに、持っていないことを何度も後悔した。私は元々記憶力が不足しており、憶えていられないからだ。

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