知ったかぶり
私の人生は、「知ったかぶり」の連続であった。よく知りもしないのに、すっかり知っているかのように話すのがもう習慣になってしまった。
若い時に知ったかぶりをし、間違いを指摘されて、体が熱くなり顔から火が出るような思いをしたことがある。その時は、金輪際知ったかぶりしないぞと決意をしたものだった。
それから暫くは用心していたようだが、自分が得意だと思っている分野に話題が移ると、また「知ったかぶり」の虫が起こってくる。
待て待て、これは危ないぞ。よく考えもせず話すと、分限を越えてしまう。またぞろ、心にも無いことを白々しく話すはめになるぞ。うん、このことなら落ち着いてしゃべれそうだと思うと、既に話題が次に移っている。機が熟すのを待つのも大変だ。
翻って考えてみると、若い時に「知ったかぶり」をしたのは健全だった意味もある。若者が多様な視点から物事を見て、その行く先をじっと考えることは、自らの世界を一歩一歩広げることにつながる。考えの至らない点は、何度も修正すればよい。
ところが、私ほどの歳を取りながら相変わらず分を越えたことを考えるとなると、自らを保つことが難しくなる。
まあよいではないか、八方破れの人生も。今の時点で「知っていること」と「知らないこと」を区別している、と錯覚している自分が可愛いではないか。
気心の知れた仲間と少しばかり「知ったかぶり」の自分を出して飲むのも愉快だし、素直に間違いを認める勇気さえあれば、それはそれで結構楽しく生きていけるのではあるまいか。